関ヶ原の戦いで敗れた織田秀信は高野山に流刑となりました。
ところが、入山が許されず、織田秀信は高野山の麓で生活を送ります。
織田秀信(三法師)が高野山に入山できなかった理由と墓所、妻と子孫を紹介します。
高野山に流刑となる前の織田秀信(三法師)
天正10年(1582年)6月に開かれた清洲会議で、わずか3歳で織田家当主となった織田秀信。
織田秀信に代わって、織田家臣・堀秀政が政務を行います。
幼い織田秀信は大人の目を気にしていなかったと思いますが、
・後継者争いをしていた織田信雄、織田信孝から敵対視
・織田秀信を担ぎ上げた豊臣秀吉から監視
される幼少期を送りました。
天正16年(1588年)に元服した後、天正18年(1590年)の小田原征伐に参戦。
亡き豊臣秀吉の養子(甥)・豊臣秀勝に代わって、12歳で岐阜城主となりました。
・織田信長の後継者は豊臣家である
・織田秀信は豊臣家の後継者である
ことを示し、豊臣秀吉は豊臣政権の確立を目指しました。
天正20年(1592年)の文禄の役では、織田秀信は朝鮮に出兵。
明を征服した暁には、豊臣秀吉は朝鮮の統治を織田秀信に任せるつもりでした。
でも、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなり、日本軍は朝鮮から撤退します。
豊臣秀吉から監視されつつも重用されてきた織田秀信。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成のどちらにつくかという選択を迫られました。
当初、織田秀信は徳川家康につくつもりでした。
ところが、石田三成から、
徳川家康に勝利した暁には、美濃国、尾張国を与える
という条件を提示され、織田秀信は石田三成につくことにします。
慶長5年(1600年)8月の米野の戦いで、織田秀信は池田輝政率いる東軍と激突。
東軍1万8000人に対して、織田秀信率いる西軍は3000人で、敗北した織田秀信は岐阜城に退却しました。
織田秀信は岐阜城に籠城しましたが、池田輝政に説得され翌日には開城。
徳川家康は西軍についた織田秀信を処刑しようとします。
ところが、福島正則が自身の手柄と引き換えに織田秀信を助命するよう嘆願。
福島正則に助けられた織田秀信は高野山に流刑となりました。
織田秀信(三法師)が高野山に入山できなかった理由
実は、織田秀信はキリシタン大名。
文禄4年(1595年)に、弟・織田秀則と共に入信していたことが判っています。
当時、キリシタンは寺を破壊したり、仏教徒を攻撃したりと、過激な行動に出ていました。
でも、織田秀信は寺を破壊するどころか、寺を積極的に保護しました。
にも関わらず、織田秀信は高野山に入山することを許されませんでした。
天正9年(1581年)に織田信長が高野山を攻めたため、
織田信長の孫が高野山に入るなんて許せない!
と言って、織田秀信の入山を拒否したんです。
織田秀信は高野山の麓にある橋本で生活を送ります。
その後、入山を許されるも、高野山で肩身の狭い日々を過ごしました。
慶長10年(1605年)5月8日、織田秀信は橋本で再び生活を送ろうと移住。
ところが、そのわずか19日後の27日、織田秀信は橋本にある向副にて26歳で亡くなりました。
織田秀信(三法師)の墓所
織田秀信の墓は晩年を過ごした和歌山県橋本市向副にあります。
織田秀信の墓は南海高野線「紀伊清水駅」から徒歩10分程度。
国道371号線を南に進むと、右手に案内板があります。
その隣にある坂を上ると、
・織田秀信顕彰碑(公碑)
・松山タケノ頌徳碑
があります。
(松山タケノは織田信長の子孫の一人で、和歌山県伊都郡助産婦会を創設しました。)
あの織田信長の孫が橋本市で生涯を終えたなんてビックリ。
ひっそりとした目立たないお墓ですが、綺麗に手入れされていました。
織田秀信(三法師)の妻と子孫
高野山の麓で晩年を過ごした織田秀信。
織田秀信には、妻や子孫がいたのでしょうか。
妻
織田秀信の妻として記録が残っているのは、次の2人です。
正室・和田孫大夫の娘
正室は六角氏庶流和田氏一族の和田孫太夫の娘です。
関ヶ原の戦いが起きた時、織田秀信の母、正室、娘は大坂城で人質となっていました。
西軍の敗北を悟った和田孫太夫は3人を連れて大坂城から脱出を試みます。
でも、3人を連れて脱出するのは難しいと判断し、和田孫太夫は織田秀信の娘だけを連れて近江へ逃げました。
継室・生地町野
高野山から入山を拒否され、向副に住んでいた織田秀信。
この時、織田秀信は銭坂城主・生地真澄の娘・町野を継室に迎えました。
生地氏は関ヶ原の戦いで西軍に属したため、改易されてしまいました。
子孫
織田秀信の子どもとして、ある程度詳しい記録が残っているのは、次の2人です。
織田恒直
織田秀信は継室・生地町野との間に織田恒直をもうけました。
織田秀信の死後、生地町野は隅田忠直と再婚。
織田恒直は隅田忠直の養子となり、隅田姓を名乗りました。
織田秀朝
織田恒直には異母兄・織田秀朝がいます。
織田秀朝は慶長6年(1601年)7月生まれ。
織田恒直の生まれ年は判っていませんが、織田秀朝が織田恒直より先に誕生しました。
織田秀朝の生母は地元有力者・西山家の娘・梅です。
ただ、織田秀信が西山梅ではなく、生地町野を継室に迎えたため、
・織田恒直が嫡男
・織田秀朝が庶子
となりました。
その他、
① 正室・和田孫大夫の娘との間にもうけた娘
② 坪井氏を祖とする女性との間にもうけた息子
がいます。
まとめ:織田秀信が高野山に入山できなかったのは織田信長のせい
織田秀信(三法師)が高野山に入山できなかった理由と墓所、妻と子孫を紹介しました。
関ヶ原の戦いで敗北した織田秀信は助命されるも高野山に流刑となりました。
ところが、祖父・織田信長の高野山攻めを理由に、高野山は織田秀信の入山を拒否。
織田秀信は高野山の麓にある橋本の向副で、継室や子どもと一緒に晩年を過ごしました。
織田秀信の墓は南海高野線「紀伊清水駅」から徒歩10分の場所にあります。
真田ミュージアムに行きがてら立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
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