浅井長政が織田信長を裏切った3つの理由と与えた影響

浅井長政は織田信長の妹・お市の夫。
つまり、浅井長政と織田信長は義理の兄弟でした。

ところが、浅井長政は織田信長と敵対していた朝倉義景と手を組みます。

浅井長政織田信長裏切った3つの理由与えた影響を紹介します。

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浅井長政が織田信長を裏切った3つの理由

浅井長政が織田信長を裏切った理由は3つあります。

朝倉家に恩義があった

お市と結婚し、織田信長と義理の兄弟になった浅井長政。
実は、浅井家は朝倉家とも深い縁がありました。

浅井家家紋
浅井長政

浅井家は元々近江国の京極家の被官(家臣)でした。

京極家が南近江の六角氏に乗っ取られたのを契機に、浅井家は自立。

以降、浅井氏と六角氏の間で抗争が続きます。
浅井氏は北近江三郡十数万石に過ぎず、六角氏に圧迫されていました。

それを救ったのが、越前国の朝倉家。

朝倉家に恩義を感じていた浅井長政は、

浅井家家紋
浅井長政

無断で朝倉家を攻めないように!

と織田信長に念を押していました。

足利義昭の信長討伐の密書を受け取った

義理の弟・浅井長政に裏切られた織田信長。
織田信長が驚いたのは、浅井長政の裏切りだけではありません。

浅井氏が長年にわたって争ってきた宿敵・六角氏と手を結んだんです。

浅井長政が織田信長を裏切るつい2年前。
織田信長が上洛した際にも、浅井氏は織田軍の先駆けとして六角氏の諸城を攻めていました。

織田信長は「浅井氏と六角氏の争いが続く限り、近江路は全面閉鎖されない」と思っていました。

何故、浅井氏が長年にわたって争ってきた六角氏と手を結んだのでしょうか。

それは、足利義昭の信長討伐の密書を受け取ったからです。

当初、織田信長と足利義昭の関係は友好でした。
ところが、織田信長と足利義昭の立場が次第に逆転し、足利義昭は織田信長に対して不満を抱きます。

織田信長も足利義昭の不満に気づき、やがて二人は対立するように。

もしかしたら、浅井氏は、

浅井家家紋
浅井長政

朝倉氏に恩を返すべきか。
それとも、朝倉氏を裏切り、織田信長に味方をするか…

どうしようかと悩んでいたかもしれません。

足利義昭の信長討伐の密書が、
① 朝倉氏との関係を優先する
② 六角氏と手を組む
という大きな決断の背景にあったと考えられます。

織田信長との関係が主従に変化していた

元々織田信長と浅井長政の関係は義兄弟で同盟相手、つまり、対等でした。

ところが、永禄13年(1570年)に織田信長が毛利元就に宛てた手紙に、
☑ 浅井家は家来である
☑ 浅井長政は小身(雑用人)であり、成敗(処罰)するのは簡単だ
と書かれています。

対等な立場、また、義兄弟(身内)であるはずの浅井長政の扱いが雑だったんです。

見下されていると感じた父・浅井久政と家臣団の反発があり、織田信長を裏切るに至ったと考えられます。
織田信長は「浅井氏は落ち目の朝倉氏を捨てて、勢いのある自分についてくる」と過信していたんですね。

浅井長政の裏切りが与えた影響

浅井長政の裏切りが与えた影響は大きく4つあります。

信長包囲網の形成

信長包囲網には第一次と第二次がありますが、浅井長政の裏切りが影響を与えたのは第一次信長包囲網です。

第一次信長包囲網とは、
① 甲斐国の武田信玄
② 越前国の朝倉義景
③ 伊勢長島一向一揆
④ 京の足利義昭
⑤ 摂津国の三好三人衆
⑥ 石山本願寺
⑦ 紀伊国の雑賀衆
⑧ 大和国の松永久秀
⑨ 北近江の浅井長政
によって形成された反織田信長連合。

美濃国と尾張国を拠点にしていた織田信長はこの9つの勢力に囲まれ、危機的状況に陥りました。

金ヶ崎の戦い

元亀元年(1570年)に起きた金ヶ崎の戦い。

金ヶ崎城の攻略は既に成功していましたが、浅井氏の裏切りを受け、織田信長は撤退を余儀なくされました。
豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)が殿を務めた戦いとしても有名です。

姉川の戦い

金ヶ崎の戦いから2ヶ月後に行われた姉川の戦い。
姉川の戦いでは、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利します。

ただ、両軍とも戦場からの撤退戦で多くの死傷者を出しました。

姉川の戦いの後、近江国志賀では織田・徳川連合軍と朝倉・浅井・比叡山延暦寺連合軍の戦が始まります。
戦の結果は、朝廷と足利義昭の仲介による和解。

ただ、織田信長は、
・当初の目的である野田・福島攻めを中断する
・弟の織田信治・信興、家臣の森可成、坂井政尚を失う
などの痛手を負いました。

小谷城の戦い

志賀の陣を経て和解をした織田信長と反織田信長連合。
ところが、近江では孤立した佐和山城主・磯野員昌、宮部継潤が織田家に降伏します。

浅井家家紋
浅井長政

浅井氏は苦境に陥っていました。

元亀4年(1573年)3月、足利義昭が槇島城で挙兵。

織田信長は和睦を申し入れましたが、足利義昭は受け入れません。
槇島城の戦いで織田信長に敗北した足利義昭は京を追われます。

チャンスだと感じた織田信長は3万の軍勢を率いて、北近江に侵攻しました。

朝倉氏の援軍を頼りにしていた浅井長政。
ところが、一乗谷城の戦いで朝倉氏は滅びてしまいます。

浅井氏は朝倉氏の援軍を得られなくなりました。

織田信長は全軍に小谷城の総攻撃を命じ、浅井久政・長政親子は自害。
小谷城は落城し、浅井氏は滅亡しました。

まとめ:浅井長政の義理堅さとプライドが裏切りを生み出した!

浅井長政織田信長裏切った3つの理由与えた影響を紹介しました。

① 朝倉家に恩義があった
② 足利義昭の信長討伐の密書を受け取った
③ 織田信長との関係が主従に変化していた
ことから、浅井長政は織田信長を裏切りました。

浅井長政の裏切りによって、織田信長は度々窮地に立たされます。
織田信長は浅井長政の義理堅さを見抜けなかったんですね。

【観光スポット】浅井長政ゆかりの地・小谷城に行こう!

標高495mの小谷山にある小谷城跡。
小谷城跡の展望所から、琵琶湖や湖北地域を一望することができます。

近くには「小谷城戦国歴史資料館」があり、
①3代にわたって北近江を支配した浅井氏とゆかりの人物
②小谷城における生活と戦い
③絵図や曲輪復元イラストを用いた小谷城の構造
などを紹介しています。

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