豊臣秀長と藤堂高虎の出会いと関係、与えた影響

築城三名人として、黒田官兵衛、加藤清正と肩を並べる藤堂高虎。
一方で、主君を次々と替えていた戦国武将としても知られています。

藤堂高虎が15年間にわたって仕えたのは豊臣秀長でした。

豊臣秀長藤堂高虎出会い関係与えた影響を紹介します。

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豊臣秀長と出会う前の藤堂高虎

藤堂高虎は弘治2年(1556年)生まれで、近江国の小さな豪族に誕生しました。
天文9年(1540年)生まれの豊臣秀長より16歳年下です。

浅井長政に仕える

藤堂高虎の初陣は、元亀元年(1570年)に起きた姉川の戦い。
続く宇佐山城攻めでも武功を挙げ、浅井長政のもとで頭角を現します。

ところが、元亀3年(1572年)には、同僚と勲功について口論し、斬り捨てて逃走しました。

阿閉貞征に仕える

藤堂高虎は浅井長政のもとを去り、浅井氏の旧臣・阿閉貞征に仕えました。
ところが、ここでも、同僚と口論になって斬り捨ててしまいます。

磯野員昌に仕える

阿閉貞征のもとを去った藤堂高虎は、浅井氏の旧臣・磯野員昌に仕えます。
続いて、織田信長の甥・信澄に仕えましたが、褒美に満足できず、間もなく去ってしまいました。

主君を次々と替える藤堂高虎は「渡り奉公」の人生を送っていました。

豊臣秀長と藤堂高虎の出会いと関係

主君を次々と替えてきた藤堂高虎。
周囲から信用されないのも無理はありません。

現在では、築城三名人として、黒田官兵衛、加藤清正と肩を並べる藤堂高虎。
ただ、当時は名の通った武将ではありません。

むしろ、「忠義に欠ける者」と低く評価されることさえありました。

出会い

藤堂高虎が豊臣秀長に出会ったのは、天正4年(1576年)頃。

豊臣家家紋
豊臣秀長

豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は、
・永禄9年(1566年)に墨俣一夜城を築いて、織田信長の美濃攻略
・元亀元年(1570年)に起きた金ヶ崎の戦いで、殿軍として織田信長の撤退
に貢献し、織田信長に注目されていました。

天正元年(1573年)には、豊臣秀吉が城主を務める長浜城の城代を務めます。

豊臣秀長は豊臣秀吉に欠かせない補佐役としての地位を既に確立していました。

関係

兄・豊臣秀吉を支える豊臣秀長が求めていたのは信頼できる家臣。

豊臣家家紋
豊臣秀長

通常、戦国武将は自身の出自をたどって、血縁のある者を自軍に組み込みます。
ただ、出自が判らない豊臣家は血縁のある者がどこに何人いるのかすら判らない状態。

豊臣秀吉・秀長兄弟は家臣集めに苦労していました。

当時、大和・紀伊方面の平定に尽力していた豊臣秀長。
豊臣秀長は軍事面で実力があり、忠義に厚い者を探していました。

主君を次々と替えてきた藤堂高虎は忠義に厚くはないかもしれません。
でも、藤堂高虎の実力、異色の経歴は豊臣秀長の目に留まりました。

一方、藤堂高虎もまた長く仕えられる主君を探していました。
豊臣秀吉とは異なり、温厚で寛容な性格の豊臣秀長に強く惹かれます。

豊臣秀長は藤堂高虎を登用し、藤堂高虎は長年にわたって仕えることになりました。

豊臣秀長が藤堂高虎に与えた影響

野心家で行動的な豊臣秀吉に対して、温厚で寛容な性格の豊臣秀長。
藤堂高虎は豊臣秀長の人柄と統治方針に感銘を受けます。

藤堂高虎が豊臣秀長に仕えたのは、天正4年(1576年)から天正19年(1591年)までの15年間。
この間、豊臣秀長は藤堂高虎にどのような影響を与えたのでしょうか。

築城技術を修得

豊臣秀長の家臣団の中には中井正清や小堀政一のような建築に長けた者がいました。
藤堂高虎はこの二人と関わるうちに、築城技術を身につけていきました。

政治手法の修得

片桐且元や長塚正家など、後に豊臣政権の中核を担う実務派の武将とも関わります。
合理的で実務を重視した政治手法を身につけていきました。

藤堂高虎は後に伊予今治藩の初代藩主、伊勢津藩の初代藩主になります。
豊臣秀長の家臣になってから得た築城技術と政治手法は領地経営に活かされました。

徳川家康との深い親交

天正19年(1591年)に豊臣秀長が亡くなると、秀長の婿養子・豊臣秀保に仕えます。

ところが、文禄4年(1595年)に豊臣秀保が早世。
豊臣秀吉が亡くなると、藤堂高虎は徳川家康に仕えました。

豊臣家家紋
豊臣秀長

実は、藤堂高虎と徳川家康を結び付けたのは豊臣秀長。
豊臣秀長の命令で、藤堂高虎は徳川家康と手紙をやり取りしていました。

手紙のやり取りを繰り返すうちに、徳川家康は藤堂高虎個人に手紙をしたためるようになります。
こうして、二人の結びつきが深まりました。

豊臣秀長が手紙のやり取りを任せていなければ、藤堂高虎はまた流浪していたかもしれませんね。

まとめ:藤堂高虎を射止めたのは、豊臣秀吉ではなく秀長!

豊臣秀長藤堂高虎出会い関係与えた影響を紹介しました。

藤堂高虎は豊臣秀長に仕えた15年間で、
① 実力と忠誠心を重視する人材登用の考え
② 築城技術と政治手法
③ 徳川家康との深い親交
を得ました。

渡り奉公の人生を送っていた藤堂高虎。
藤堂高虎の人生の大きな転機は豊臣秀長との出会いだったのではないでしょうか。

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