豊臣秀吉と別所長治の三木城の戦いの原因と経過、結果をわかりやすく

豊臣秀吉が兵糧攻めを行い、その悲惨さから「三木の干殺し」とも呼ばれる三木城の戦い。

豊臣秀吉別所長治三木城の戦い原因経過結果わかりやすく紹介します。

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三木城の戦いとは?

三木城の戦いとは、天正6年(1578年)3月に、
① 豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)
② 三木城城主・別所長治
の間で行われた戦いを指します。

最も大きな戦いが繰り広げられた場所は三木城(兵庫県三木市)ですが、
・神吉城や志方城などの支城(兵庫県加古川市)
・三木城から2km離れた平井山
など、さまざまな場所で戦が行われました。

三木城の戦いの原因

織田信長は豊臣秀吉に中国攻略(毛利攻め)を命じます。

三木城は畿内と中国をつなぐ交通の要。
別所氏を味方につけていた豊臣秀吉は大船に乗ったつもりでいました。

ところが、別所長治が織田信長を突然裏切ります。

☑ 交通の要である三木城を手に入れる
☑ 裏切った別所氏を見過ごすわけにいかない
ため、豊臣秀吉は三木城を攻めることになりました。

三木城の戦いの経過

三木城に籠城したのは、別所長治をはじめとする7500人。
国人衆の他、その家族、浄土真宗の門徒も含まれていました。

別所長治が支城を介して、三木城に兵糧を運び込む

まず、別所長治は7500人分の兵糧を確保しようとします。
瀬戸内海を制していた毛利氏によって、兵糧の海上輸送が行われることになりました。

海沿いにある高砂城や魚住城で兵糧を陸揚げし、支城を介して、三木城に運び込みました。

豊臣秀吉が支城を制圧し、三木城を包囲する

天正6年(1578年)3月、別所長治が籠城するつもりだと知った豊臣秀吉は三木城を包囲。
6月から10月にかけて、三木城の支城(神吉城・志方城・魚住城・高砂城)や補給拠点を制圧しました。

結果、豊臣秀吉は播磨国で二十万石以上の領地をもつことに。
長期戦になっても、兵糧が不足することはなくなりました。

豊臣秀吉が平井山に本陣を構える

豊臣秀吉は平井山(三木城から北東に2km)に平井山ノ上付城を築き、本陣を構えます。

築城のお祝いとして、津田宗及を招いて茶会を開きました。

平井山で別所長治の弟・治定が討死にする

ところが、有岡城主・荒木村重も織田信長を裏切ります。

荒木村重の領国は摂津で、三木城から50km東に位置します。

摂津の港で兵糧を陸揚げし、三木城へ運ぶという新たな補給路ができました。

荒木村重の協力を得て、兵糧の補給路を確保した別所長治。
それでも、7500人分もの兵糧を集めることはできません。

天正7年(1579年)2月、焦った別所長治は平井山ノ上付城に、2500人の兵を送ります。
残念ながら、別所長治の弟・治定が討死にし、別所軍は敗北しました。

6月13日、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛は平井山ノ上付城で病死しました。

毛利氏と播磨・摂津が分断され、三木城が孤立する

10月、毛利氏に味方をしていた宇喜多直家が裏切り、織田信長に寝返ります。
毛利氏の領国と播磨・摂津が分断され、三木城は支援を受けられなくなりました。

豊臣秀吉は別所長治に降伏するよう進めましたが、別所長治は応じませんでした。

豊臣家家紋
豊臣秀吉

経過をまとめると、次のようになります。

三木城の戦いの結果

天正8年(1580年)1月、三木城内の兵糧は底を尽き、餓死者が続出しました。
豊臣秀吉に従っていた叔父・別所重宗は、城外から降伏を勧めます。

この時、豊臣秀吉は、

豊臣家家紋
豊臣秀吉

城主一族が切腹すれば、城内のその他の者の命を助ける。

という条件を出しました。

別所長治はこの条件を受け入れ、妻子や弟と共に自害。
1年10か月にも及ぶ籠城戦・三木城の戦いは終了しました。

まとめ:荒木村重の裏切りで、豊臣秀吉は一時的に大ピンチ!

豊臣秀吉別所長治三木城の戦い原因経過結果わかりやすく紹介しました。

裏切った別所長治を討ち取る、交通の要である三木城を手に入れるために始まった豊臣秀吉の三木城攻め。
補給路を次々と断たれ、別所長治は7500人分の兵糧を確保することができませんでした。

荒木村重が織田信長を裏切った時、
・三木城の別所軍
・有岡城の荒木軍
に挟まれた豊臣秀吉は一時的に大ピンチ
に陥りました。

宇喜多直家が毛利氏に味方していたら、豊臣秀吉は命を落としていたかもしれませんね。
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