徳川家康と戦ったお田鶴の方が椿姫と呼ばれる由来

亡き夫・飯尾連龍に代わって曳馬城を守ったお田鶴の方。
曳馬城を巡って徳川家康と戦ったお田鶴の方は壮絶な最期を迎えました。

お田鶴の方の生涯、椿姫と呼ばれる由来を紹介します。

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徳川家康と戦ったお田鶴の方の生涯

お田鶴(たづ)の方は天文19年(1550年)生まれで、鵜殿長持と今川氏親の娘の間に誕生しました。

鵜殿長持は徳川家康に討たれた上ノ郷城主・鵜殿長照の父で、今川氏親は今川義元の父です。

徳川家康の正室・築山殿の母も今川氏親の娘。
つまり、お田鶴の方は築山殿の従妹にあたります。

おゆう
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また、徳川家康が討死に追い込んだ鵜殿長照の妹にあたります。

永禄8年(1565年)12月、飯尾連龍が今川氏真に殺された後、飯尾家臣は主君の選択を迫られます。

例えば、飯尾連龍の家老・江間泰顕、江間時成兄弟。

江間泰顕は甲斐国の武田信玄に、江間時成は三河国の徳川家康に仕えることにしましたが、江間泰顕は江間時成を殺し、その後、江間泰顕は江間時成の家臣・小野田小次郎に殺されてしまいました。

誰も頼ることのできないお田鶴の方は、飯尾連龍に代わって曳馬城を守ることに決めました。

永禄11年(1568年)12月、徳川家康は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として曳馬城に送り、「開城すれば、子どもが生活に困らないよう面倒をみる」と言って、開城するよう迫りました。

先に亡くなった長男・辰之助にとってはもちろん、次男・辰三郎、三男・義廣にとっても自慢の母でありたいと願ったお田鶴の方は徳川家康の条件を飲みませんでした。

一刻も早く曳馬城を手に入れて、武田信玄の遠江・駿河侵攻に備えたかった徳川家康は、曳馬城を攻撃。

お田鶴の方は自ら指揮をとり、300人の兵を率いて、徳川軍と戦いました。
曳馬城の兵の奮闘により、徳川軍300人が討死しましたが、徳川軍の兵の数は曳馬城の兵に比べてはるかに多く、徳川軍は三の丸、二の丸へと攻め入りました。

お田鶴の方は次男・辰三郎、侍女18人と共に徳川軍を迎え討ちましたが、全員討死しました。

椿姫と呼ばれる由来

お田鶴の方は椿姫とも呼ばれています。

お田鶴の方が討死したと知った従姉・築山殿の植えた100本を超える椿が由来です。
築山殿は西来院の和尚と共に読経供養を行い、塚の周りに椿を植えました。

西来院には築山殿の廟堂があります。

椿が綺麗に咲いた後も、築山殿は足しげく通いました。

徳川家康が「いつまでも悲しんでいてはいけない」と言って、築山殿を制止すると、築山殿は「他人事ではありません。全てが私に関わることなんです」と言い退けました。

お田鶴の方と徳川家康は戦う運命だったかもしれませんが、夫が従妹を殺すなんて、築山殿にとって悲しく辛い出来事だったにちがいありません。
徳川家康と築山殿の夫婦仲は冷めていたといわれていますが、こういった事情も原因の一つだったのではないでしょうか。

まとめ

お田鶴の方の生涯、椿姫と呼ばれる由来を紹介しました。

夫と息子を今川氏真に殺され、自らも18歳で討死したお田鶴の方。
二人揃って長生きしていたら、力を合わせて戦国時代を生き抜くたくましい夫婦になっていたのではないでしょうか。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。


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