
「鳥取の渇え殺し(飢え殺し)」と呼ばれる鳥取城攻め。
豊臣秀吉が攻めた時、鳥取城主を務めていたのは吉川経家でした。
吉川経家が鳥取城主に選ばれた理由とみせた忠義、壮絶な最期を紹介します。
吉川経家はなぜ鳥取城主に選ばれた?
天正8年(1580年)6月に起きた第一次鳥取城攻め。
城主・山名豊国は単身で豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に降伏しました。
9月21日、徹底抗戦を進言していた家臣・森下道誉、中村春続は鳥取城から山名豊国を追い出します。
そして、毛利氏に無条件で鳥取城を引き渡しました。

吉川元春は家臣・市川春俊、朝枝春元率いる500人の兵を派遣し、鳥取城を受け取りました。
ところが、天正9年(1581年)1月。
因幡宮吉城の田公新介が毛利氏を裏切り、西因幡と鳥取城を結ぶルートを遮断します。

この頃の毛利氏の主な戦場は美作と伯耆。
鳥取城のある因幡に兵を割くことができませんでした。
このような情勢から、山名豊国に代わって鳥取城に入ってくれる人物は簡単にはみつかりません。
そこで選ばれたのが、
① 山陰の戦線を統括する吉川氏の同族
② 吉川元春の息子・元長と仲良し
の吉川経家でした。
吉川経家がみせた忠義
吉川経家と共に入城する家臣は当然猛反対。
そこで、吉川経家は家臣を納得させる、士気を高めるために、

鳥取城主を引き受ける代わりに、褒美が欲しい。
と言って、恩賞を要求しました。
吉川元春・元長親子は因幡600石の恩賞を約束します。
でも、この恩賞は織田氏に単独勝利しなければ得られないものでした。
天正9年(1581年)3月、吉川経家が鳥取城主として入城します。
☑ 自分の首桶を持参した
☑ 嫡男・亀寿丸(後の吉川経実)に所領を譲る文書をしたためた
といわれています。
3月18日、吉川経家は鳥取城に常駐する毛利軍や因幡の国人衆から歓迎されます。
翌日の19日には、因幡衆の各家の当主と対面。
吉川経家は「名城・鳥取城に籠城し、毛利氏の役に立てることは大変名誉だ」と述べました。
吉川経家の壮絶な最期
鳥取城に入った吉川経家は早速籠城の準備に取り掛かります。
鳥取城の城兵の数は1800人で、兵糧の蓄えは3ヶ月分でした。

冬になれば雪が積もり、豊臣軍は撤退する。
勝つ可能性はある。
吉川経家は毛利軍や国人衆を集めて、そう勇気づけました。
ところが、鳥取城に2000人の農民兵が逃げ込んできます。
豊臣軍が鳥取城下の農民を攻撃し、農民が助けを求めてきたからです。
城兵の数は2倍に膨れ上がりましたが、兵糧の蓄えは増加しません。
① 第一次鳥取城攻めで、田畑が荒らされていた
② 豊臣秀吉の命令を受けた若狭の商人が因幡の米を高値で買い取っていた
ため、自ら兵糧を調達するのは不可能でした。
そこで、吉川経家は吉川元春に兵糧の支援を要請します。
また、
① 日本海に面した丸山城
② 丸山城と鳥取城の中間地点に雁金山城
を築き、日本海と鳥取城を繋ぐ補給ルートを構築しました。
更に、同じく日本海に面した大崎城の守備を強化し、防己尾城を介した補給ルートを確保しました。

ところが、2万人にも及ぶ豊臣軍が12kmにも達する包囲網を完成させます。
豊臣秀吉は鳥取城を囲むように、70の城を築き、雁金山城を陥落。
吉川元春は海路を使って兵糧を支援しようとしましたが、船は次々と沈められてしまいました。

経過をまとめると、次のようになります。

豊臣秀吉は吉川経家の奮戦をたたえ、

第一次鳥取城攻めの際に降参しなかった森下道誉、中村春続に責任を取らせばいい。
と言って、吉川経家を助けたいことを伝えました。
ところが、吉川経家は豊臣秀吉の申し出を拒否し、

私が責任を取って自害するので、森下道誉、中村春続の二人を助けてほしい。
と言いました。
吉川経家の申し出は聞き入れられませんでした。
10月24日、森下道誉、中村春続は、
① 因幡に戦乱を招いた罪
② 主君(山名豊国)を裏切った罪
の2つの罪で切腹を命じられます。
同日、吉川経家は、
① 吉川広家宛
「毛利氏と織田氏が激突した日本2つの弓矢の境目で切腹できることは名誉です」
② 子ども宛
「鳥取のこと、夜昼200日こらえましたが、兵糧も尽き果ててしまいました。
そこで、私の命を懸けて皆を助け、吉川一門の名を上げることができました。
その幸せな物語を聞いてほしい」
と遺書をしたためました。
翌朝、吉川経家は家臣と盃を交わします。
そして、「稽古もできなかったから、下手な切り方になるだろう」と言って切腹しました。
吉川経家は34歳でこの世を去ります。
豊臣秀吉は吉川経家の首を見て、男泣きしたといわれています。
まとめ:豊臣秀吉も泣くぐらい、吉川経家はイイ男!
吉川経家が鳥取城主に選ばれた理由とみせた忠義、壮絶な最期を紹介しました。
自分の首桶や嫡男への手紙を準備して入城した吉川経家。
死を覚悟しながらも城兵を守ろうと、吉川経家は最期まで奮戦しました。
豊臣秀吉は吉川経家を家臣として迎えたかったのではないでしょうか。
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