徳川家康の友達で石田三成の恩人だった本多正信の逸話

徳川四天王をはじめ、徳川家臣には武功を立てる武将が多くいましたが、本多正信は頭の回転が速く、徳川家康の参謀として活躍しました。

徳川家康にとって友達であり、石田三成にとって恩人だった本多正信逸話を紹介します。

スポンサーリンク

徳川家康の友人だった

徳川家康は三大好物として、「鷹狩、佐渡殿、お六殿」を挙げました。

鷹狩は徳川家康の趣味。
お六殿は徳川家康の側室の中で一番若い女性・養儼院(ようげんいん)。
佐渡殿は本多正信の通称。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

つまり、本多正信は徳川家康の趣味、側室と肩を並べていたんです。

徳川家康から厚い信頼を寄せられていた本多正信。

実は、本多正信が徳川家康と意見を対立させたことはありませんでした。
というのも、徳川家康と意見が対立しそうな場面では、本多正信は居眠りをしているふりをして沈黙を通しました。
反対に、徳川家康と意見が合う場面では、徳川家康の意見を誰よりも称賛しました。

また、徳川家康に何を悩んでいるのか、どうするつもりなのかを尋ねた時、徳川家康から「今、考えているところだ」と言われると、本多正信は黙ってその場を立ち去りました。
本多正信は徳川家康が何を悩み、どうするつもりなのかを悟ることができたからです。

江戸時代中期の朱子学者・新井白石は、本多正信と徳川家康の関係を「朋友の如く」と言っています。

二人の関係は、第三者からみても「友人」だったんですね。

西軍・石田三成の長男を助けた

慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦い。
徳川家康率いる東軍に破れた西軍の指揮官・石田三成は処刑されました。

おゆう
おゆう

復讐を警戒して、敗北した武将の息子も処刑されるのが一般的。

でも、石田三成の息子の処分を決める前に、石田三成の長男・石田重家は10代前半で出家し、「父の敵討ちはしない」と宣言して、妙心寺の僧になってしまいました。

ただ宣言しただけなら、「そうはいっても、いつか気が変わるかもしれない」という理由をつけて処刑することはできます。
でも、徳川家康は妙心寺の僧となった石田重家を処刑してもいいものかと悩んでいました。

すけさん
すけさん

というのも、妙心寺の住職・伯蒲慧稜が徳川家康の長女・亀姫の夫である奥平信昌を通じて、石田重家の助命を嘆願したんです。

石田重家を処刑したら、僧を処刑するなんて非情だと非難されることはもちろん、亀姫と奥平信昌の面子をつぶしてしまいます。
でも、石田重家を生かしたら生かしたで、石田三成を特別扱いしたことになってしまいます。

坊っちゃん
坊っちゃん

石田重家を処刑しても、処刑しなくても、どちらを選んでも、徳川家康にとってマイナス。

すると、悩む徳川家康に、本多正信は「石田三成の功績を称えて、石田重家を生かしてはどうか」と言いました。

長年にわたって、石田三成と対立してきた徳川家康は本多正信の言う「功績」が分からず、石田三成の挙げた功績がどのようなものかと尋ねました。

すると、本多正信は「関ヶ原の戦いという不要な戦を起こし、殿(徳川家康)に勝利をもたらしたではないか」と答えました。

本多正信の皮肉を聞いた徳川家康は「そうだ!それでいこう!」と言って、石田重家を生かすことに決めました。
徳川家康が「友」と呼ぶ本多正信だからこそ、徳川家康を説得できたんですね。

長男・本多正純に加増を断るよう進言した

天正18年(1590年)の小田原征伐の後、本多正信は相模玉縄藩に1万石の所領を与えられました。

おゆう
おゆう

本多正信が亡くなったら、跡継ぎである長男・本多正純が玉縄藩主となって受け継ぐことになります。

本多正純の将来を心配した本多正信は「もし、私が亡くなった後に、所領を与えられることがあれば、3万石までは受け取り、それ以上は断りなさい」と進言しました。
また、徳川家康の三男である第2代将軍・徳川秀忠には「(本多正純の)所領をこれ以上増やさないように」とわざわざ申し出ました。

元和2年(1616年)、徳川家康と本多正信が相次いで亡くなり、徳川秀忠と年寄(老中)・本多正純が中心となって政務を行うようになりました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

本多正純は亡き父・本多正信の功績を誇り、徳川家臣にはもちろん、徳川秀忠にまで威張ってしまいます。

元和5年(1619年)には、下野小山藩5万3000石から宇都宮藩15万5000石に加増され、本多正信の功績だけで今の地位に昇りつめた本多正純は周囲から反感を買うようになりました。

やがて、徳川秀忠からも反感を買った本多正純は出羽横手に流され、幽閉生活を送ることとなりました。

周囲の反感を買ってきた本多正信は、本多正純も同じく周囲の反感を買うことを予想していたんですね。

まとめ

徳川家康にとって友達であり、石田三成にとって恩人だった本多正信逸話を紹介しました。

徳川家康の友人として、徳川家臣として、上手に立ち振る舞った本多正信。
徳川四天王といった武将として活躍した徳川家臣には残せない、頭の回転の速い本多正信だからこそ伝わる逸話ですね。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。


=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

タイトルとURLをコピーしました