槍の半蔵・渡辺守綱は三河一向一揆で徳川家康を裏切るも帰参後は忠臣に

三河一向一揆徳川家康裏切った渡辺守綱。
徳川家康に槍を向けたものの罪を許され、帰参後は徳川十六神将の一人に数えられる忠臣となりました。

槍の半蔵と呼ばれた徳川十六神将の一人・渡辺守綱生涯を紹介します。

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三河一向一揆で徳川家康を裏切る

渡辺守綱は天文11年(1542年)生まれで、渡辺高綱と渡辺義綱の娘の間に長男として誕生しました。
渡辺高綱が徳川家康の父・松平広忠と徳川家康に仕えていたこと、また、徳川家康と同い年だったことから、渡辺守綱は16歳で徳川家康に仕えることとなりました。

おゆう
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渡辺守綱の初めての仕事は、今川家の人質だった徳川家康と一緒に駿府で過ごすこと。
家臣とはいえ、徳川家康にとって同い年の渡辺守綱は友達のような存在だったかもしれません。

弘治4年(1558年)には、織田家臣であり徳川家康の伯父でもある水野信元と戦い、初陣を迎えました。
永禄4年(1561年)の長沢城攻めでは敵将を討ち取り、永禄5年(1562年)の八幡村城攻めでは、敗北して退却する徳川家康のために殿(しんがり)を務めました。

ところが、永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆で、渡辺守綱は父と共に一揆衆に加わりました。

徳川家康が一揆を鎮圧すると、これまでの功績から渡辺守綱は徳川家康に槍を向けた罪を許されます。
徳川家康に許してもらえると思っていなかった渡辺守綱は、徳川家康に感謝の気持ちを抱き、徳川家康の期待に応えていきます。

渡辺高綱は一揆の最中に戦死しました。

帰参後は忠臣に

三河一向一揆で徳川家康に槍を向け、罪を許されて帰参した渡辺守綱。
帰参後は徳川家康の忠臣として活躍します。

姉川の戦いで一番槍をあげる

渡辺守綱は槍が得意。
旗本軍の足軽頭として、槍を片手に敵陣に突入する姿から「槍半蔵」と呼ばれました。

姉川の戦いでは、朝倉軍に突入し一番槍をあげました。

また、三方ヶ原の戦いや長篠の戦い、小牧・長久手の戦いでは、先鋒を務めました。

特に、三方ヶ原の戦いでは、徳川家康が浜松城に無事帰還したのを確認すると、徳川家康を追ってやって来た武田軍を撃退。
浜松城に退却した兵と挟み撃ちにし、武田軍を壊滅状態に追い込みました。

長篠の戦いでは、山本勘助の長男・山本勘蔵を討ち取りました。

徳川義直に仕える

慶長8年(1603)年、徳川家康が江戸幕府を開くと、渡辺守綱は徳川家康の九男である尾張藩主・徳川義直に仕えました。

おゆう
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徳川家康は江戸と大坂の中間地点に当たる名古屋を特に重要視していました。

渡辺守綱は平岩親吉と共に藩政を代行し、徳川義直の軍事顧問をも務めました。

その後、寺部城主となりましたが、寺部城(愛知県豊田市)に身を移しても、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、渡辺守綱は徳川義直に従って出陣。

すけさん
すけさん

この時、渡辺守綱は既に72歳でしたが、大坂の陣は徳川義直にとって初陣だったため、渡辺守綱はなんとしてもサポートしたかった、また、成長をその目で見たかったのかもしれません。

この頃、戦では鉄砲を用いるのが主流でしたが、大坂の陣でも、渡辺守綱は槍を持って戦い抜きました。

元和6年(1620年)、渡辺守綱は78歳で亡くなりました。

孫・渡辺吉綱は徳川秀忠の家臣となり、後に、和泉国の伯方の初代藩主までのぼり詰めました。
伯方藩は小さな藩ではありましたが、改易や減封といったトラブルを起こさず、明治維新まで存続。明治維新を経て、渡辺守綱の子孫は華族となりました。

まとめ

槍の半蔵と呼ばれた徳川十六神将の一人・渡辺守綱生涯を紹介しました。

70歳を過ぎても、鉄砲が主流となっても、槍を片手に戦場に立ち続けた渡辺守綱。

渡辺守綱のその姿は兵のあこがれだったのではないでしょうか。

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