悪女として名高い則天武后が可愛がった上官婉児。
上官婉児はどのような人物なのでしょうか。
また、則天武后は上官婉児に本気で怒ったことがありますが、二人の間に何が起きたのでしょうか。
則天武后の側近・上官婉児の生い立ち、愛人・張兄弟との浮気のエピソードや上官婉児に与えられた刑罰を紹介します。
則天武后の側近・上官婉児の生い立ち
上官婉児は664年に生まれました。
上官婉児の生い立ちをみていきましょう。
祖父は上官儀
詩文が得意だった上官婉児の祖父・上官儀は、唐の第2代皇帝・太宗に登用され、第3代皇帝・高宗のもとでは秘書として、詔勅を書く仕事をしていました。
ある日、則天武后が祈祷師を宮廷に連れ込み、まじないをしているという噂が広がりました。
宮廷でまじないをすることは禁止されていたので、高宗は噂を信じられませんでしたが、臣下に則天武后の身の回りを調査させたところ、則天武后は本当にまじないをしていました。
まじないの目的は除霊。
ライバルだった王皇后と蕭淑妃を処刑した則天武后は、二人の怨霊に悩まされていたんです。
でも、則天武后が除霊に悩まされていると知らなかった高宗は「私を呪い殺そうとしている」と勘違いしてしまいました。
そこで、高宗は則天武后を廃そうと、上官儀に詔勅を書かせました。
官婢になる
上官儀が書いた詔勅を確認していたところ、則天武后が高宗のもとを訪れました。
タイミングが悪過ぎ。
詔勅を目にした則天武后は、高宗を厳しく問い詰めました。
則天武后の剣幕に怖気づいた高宗は「上官儀が勝手に書いた」と嘘をついて、上官儀のせいにしてしまいました。
上官儀は否定しましたが、国のトップである高宗が「上官儀が勝手に書いた」と言えば、上官儀が勝手に書いたことになります。
上官儀は処刑され、孫の上官婉児とその母・鄭氏は官婢として、宮廷に入りました。
14歳で秘書になる
鄭氏は上官婉児が宮中で生き残っていけるように、勉強を教えました。
上官婉児は知識をどんどん吸収し、女官が通う習芸館で勉強することを特別に許可されました。
やがて、則天武后にその才能を認められ、14歳で秘書になりました。
秘書になった上官婉児は、則天武后から政治を直接学び、則天武后の右腕として大活躍しました。
則天武后の愛人・張兄弟との浮気エピソード
則天武后の秘書になった上官婉児は、則天武后といつも一緒。
晩年、80歳近い則天武后が20歳前後の張兄弟(張易之と張昌宗)を寵愛した時も、上官婉児はそばにいました。
ある日、則天武后、張兄弟、上官婉児の4人で食事をした時、張昌宗と上官婉児の目が合いました。
当時、上官婉児は30代後半。
80歳の則天武后より30代の上官婉児のほうが、張昌宗にとって恋心を抱きやすかったのかもしれません。
二人が目を合わせたことに気付いた則天武后は、上官婉児が張昌宗と浮気しようとしたとして、刑罰を与えました。
上官婉児に与えられた刑罰
則天武后が上官婉児に与えた刑罰は刺青の刑。
その名のとおり、刺青を入れることです。
上官婉児のおでこに刺青を入れるように、則天武后は宦官に言い渡しました。
おでこは誰からも見える場所。
おでこに刺青を入れれば、上官婉児が罪人だと一目でわかります。
ところが、刺青のデザインを指定されていなかった宦官は、上官婉児のおでこに梅の花を彫りました。
梅の花の刺青を入れた上官婉児は色気が増し、女官はもちろん、則天武后までも目を奪われました。
その後、上官婉児は政務に励み、則天武后は何もなかったかのように上官婉児を再び可愛がりました。
まとめ
則天武后の側近・上官婉児の生い立ち、愛人・張兄弟との浮気のエピソードや上官婉児に与えられた刑罰を紹介しました。
上官婉児は祖父・上官儀の処刑をきっかけに宮廷入りし、則天武后から才能を認められ、14歳の若さで秘書に抜擢されました。
秘書になって20年が経った頃、則天武后が寵愛していた張昌宗と目が合っただけで刺青の刑を言い渡されましたが、刑罰を受けた後、則天武后は以前と同じように上官婉児を重用しました。
秘書として則天武后を支え続けた上官婉児。
則天武后が引退した後も秘書を務め続け、朝廷に大きな影響を与えました。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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