【唐】則天武后の愛人・薛懐義、沈南璆、張易之、昌宗ってどんな人?最期は?

唐の第2代皇帝・太宗の側室であり、第3代皇帝・高宗の妻でもある則天武后。

高宗が崩御した後、則天武后には薛懐義と沈南璆、張易之、張昌宗という4人の愛人がいました。
中国三大悪女の一人に数えられる則天武后と付き合った4人はどのような人物なのでしょうか。

薛懐義と沈南璆、張易之、張昌宗の生涯と最期を紹介します。

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則天武后の愛人・薛懐義ってどんな人? 最期は?

薛懐義は改名で、本名は馮小宝。
20代半ばの馮小宝は洛陽で薬売りをしていました。

薬売りといっても、頭痛薬や風邪薬など、一般的な薬を取り扱っていたわけではありません。
男性には滋養強壮薬を、女性にはサービスを売って、皆を喜ばせていました。

商売上手な馮小宝は街でたちまち有名になり、千金公主は馮小宝を呼び出しました。

おゆう
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千金公主は初代皇帝・高祖の第18皇女で、温挺と鄭敬玄に嫁ぎましたが死別。
未亡人で暇を持て余していた千金公主は、馮小宝に興味をもったんです。

千金公主の邸宅を訪れた馮小宝は、豪華な食事を出され、バラを浮かべたお風呂に入らされるなど、経験したことのないようなおもてなしを受けました。

馮小宝からサービスを受けた千金公主は、仲がいい則天武后に馮小宝を紹介することにしました。

千金公主から馮小宝を紹介された則天武后は、馮小宝をすぐに気に入り、「毎日会いたい」と思いました。

お嬢ちゃん
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でも、20代半ばの馮小宝に対し、則天武后は61歳。

親子以上に年の離れた二人が度々会うと、周囲から怪しまれてしまいますよね。

そこで、則天武后は太平公主の夫・薛紹の名字を与えて、薛懐義に改名させ、白馬寺の寺主に任命しました。

おゆう
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白馬寺は後漢の明帝が建立した歴史あるお寺。
則天武后が薛懐義をどれだけ寵愛していたかが分かりますね。

寺主になった薛懐義は仏教を猛勉強し、明堂を建立したり、「則天武后は天女の生まれ変わりだ」と記した大雲経を作って、全国に広めたりしました。

薛懐義のおかげで、臣下や民から「皇帝にふさわしい」と認められた則天武后は、690年に中国史上唯一の女帝になりました。

ところが、則天武后の寵愛が増すにつれて、薛懐義はどんどん傲慢になりました。

お嬢ちゃん
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やがて、則天武后を訪ねず、女官と密会を重ねるなど、則天武后を裏切ってしまいました。

薛懐義に呆れた則天武后の寵愛は、侍医・沈南璆に移りました。
すると、沈南璆に嫉妬した薛懐義は、自ら建立した明堂に放火するなど、自暴自棄になりました。

薛懐義が邪魔になった則天武后は娘・太平公主に処刑を命じ、薛懐義はこの世を去りました。

則天武后の愛人・沈南璆ってどんな人? 最期は?

薛懐義に続いて、則天武后の愛人になったのが沈南璆です。

おゆう
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沈南璆は則天武后の侍医で、体格が良く健康的な薛懐義とは正反対の虚弱体質。

則天武后の病気を治療しているうちに、目に留まり、沈南璆は愛人になりましたが、紹介したように、沈南璆と薛懐義の愛人関係は同時進行。


薛懐義が処刑されると、則天武后の病気を直さなければならない、薛懐義以上に則天武后を満足させなければならないと悩み、沈南璆は精神を患ってしまいました。

おゆう
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残念ながら、沈南璆が亡くなった年は不明です。

薛懐義が亡くなった695年から、次の愛人・張易之、張昌宗を迎えるまでの間に亡くなったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

則天武后の愛人・張易之、張昌宗ってどんな人? 最期は?

薛懐義、沈南璆を失い悲しむ則天武后に、娘・太平公主は張易之と張昌宗を紹介しました。

お嬢ちゃん
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二人は20歳前後の兄弟で、81歳だった則天武后とはなんと60歳差。

孫ほど年が離れていますが、則天武后は整った顔立ちと華やかな衣装を着こなす二人の虜になりました。

則天武后の親戚や臣下が張兄弟にひれ伏すほど、二人は寵愛を受け、張兄弟をそばに置く大義名分として、常に皇帝の隣に控える雲麾将軍行左千牛中郎将に任命しました。
また、文学を研究する控鶴府のトップに任命しました。

おゆう
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でも、張兄弟には何の才能もなく、部下が張兄弟の仕事を請け負い、二人は宴会に明け暮れました。

やがて、則天武后自身も政務を放り出して、二人と宴会を楽しむようになったため、朝廷は大混乱。

朝廷を正常に戻すためには、張兄弟を排除し、則天武后を皇帝の座から引きずり下ろし、新たに皇帝を即位させる必要があると考えた宰相・張柬之クーデターを起こしました。

クーデターは成功し、張兄弟は殺され、則天武后は中宗に譲位。
国のトップに立った則天武后の政治は15年で幕を閉じました。

まとめ

薛懐義と沈南璆、張易之、張昌宗の生涯と最期を紹介しました。

薛懐義は則天武后の最初の愛人で、則天武后に勧められて白馬寺の寺主となり、仏教を勉強しました。
その後、明堂を建立したり、大雲経を作ったりして、則天武后を女帝に導きましたが、則天武后の寵愛が沈南璆に移ると、嫉妬した薛懐義は自暴自棄になり、最後は太平公主に処刑されました。

2番目の愛人である沈南璆は則天武后の侍医で、薛懐義が嫉妬するほど、則天武后は沈南璆を寵愛しましたが、沈南璆は心身が弱く、精神を患って亡くなりました。

3番目、四番目の愛人である張易之、張昌宗は、則天武后が政務を放り出すほど寵愛されましたが、宰相・張柬之が起こしたクーデターで殺されました。

4人の愛人のうち、則天武后が誰を一番寵愛したのかは分かりませんが、沈南璆に同じく、高宗も虚弱体質。
男勝りだった則天武后は、身体の弱い男性を気にかける姉御肌だったのかもしれませんね。

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