科挙はいつからいつまで行われた?問題点と廃止された理由

世界的にも難関試験として有名な科挙。
科挙はいつからいつまで行われたのでしょうか。
また、何故、廃止されたのでしょうか。

科挙が行われた時期と問題点、廃止された理由を紹介します。

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科挙はいつからいつまで行われた?

科挙が始まったのは598年、隋の初代皇帝・文帝(楊堅)時代です。

それまで中国では世襲制が用いられ、貴族が官吏に登用されていました。

おゆう
おゆう

つまり、貴族政治が行われていたんです。

でも、文帝は自分の地位を確固たるものにするために、自ら優秀な人材を集めて、試験を行い、官吏を登用しました。
これが科挙の始まりです。

優秀な人材を集めるといっても、文帝一人では限界があります。
実際には、地方長官に優秀な人材を推薦させて、受験生を募っていました。

隋は文帝、煬帝(楊広)の2代で滅びましたが、科挙は唐にも引き継がれ、1904年まで約1300年間行われました。

科挙の問題点

倍率がとても高かった科挙。
合格を目標に掲げて、勉学に励む人がたくさんいましたが、科挙には問題点がありました。

政治の役に立たない

科挙の試験内容は、経書の暗記や詩文作成がメイン。
科挙に合格しようと、受験生はたくさんの時間とお金を費やし、経書の暗記に励みました。

坊っちゃん
坊っちゃん

でも、科挙に合格して、官吏に登用されても、暗記した経書は政治の役に立つでしょうか。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

美しい文章を書けることが政治の役に立つでしょうか。

政治の世界で求められるのは、経書や詩文の才能ではなく、実務能力。
もちろん、科挙に合格して登用された官吏の中には、実務能力を兼ね備えた者もいます。

すけさん
すけさん

でも、優秀な官吏はほんの一握り。

科挙に合格して登用された官吏と縁故で登用された官吏間で対立が起こることもしばしば。
安史の乱勃発の原因ともいわれる李林甫と張九齢のように、官吏同士の対立に皇帝は振り回され、国が混乱に陥った例もありました。

反乱のきっかけになる

多大な時間とお金をかけて受験する科挙。
努力が報われず、科挙に不合格となった者の中には、自暴自棄になって反乱を起こす者がいました。

例えば、874年に勃発した黄巣の乱の指導者・黄巣、1851年に勃発した太平天国の乱の指導者・洪秀全などが挙げられます。

時代遅れ

科挙が始まった当時、世界から見ても、科挙は画期的な制度でした。

おゆう
おゆう

というのも、ヨーロッパやアメリカでは出身が重視され、長期にわたって、貴族を中心に政治が行われていたからです。

イギリスで官吏登用に試験が用いられたのは1870年頃、アメリカで官吏登用に試験が用いられたのは1883年頃だといわれています。
欧米諸国が官吏登用に試験を用いる1200年以上も前から、中国では官吏登用に試験を用いていたんです。

ただ、逆に言えば、中国は1200年以上も前の制度をずっと続けていることになります。
欧米諸国が優秀な官吏を登用し、国力を高めると、中国の科挙が時代遅れであることが明確になりました。

科挙が廃止された理由

1901年、義和団事件が起きました。
義和団とは1899年に結成された、扶清滅洋というスローガンを掲げる秘密結社です。

扶清滅洋とは清を助けて、ヨーロッパを滅ぼすという意味。
外国人やキリスト教信者、貿易品を扱うお店などを襲撃し、孫悟空や諸葛亮を神として崇めていました。

当時、中国三大悪女の一人として有名な西太后が政権を握っていて、西太后は義和団の活動を支援しました。

おゆう
おゆう

つまり、西太后は欧米諸国に宣戦布告をしたんです。

日本、ロシア、イギリス、イタリア、オーストリア、ドイツ、フランス、アメリカの8ヶ国連合軍は7万人の兵を率いて清に入り、20万人の兵を率いていた義和団をわずか2ヶ月で制圧しました。
欧米諸国に負け、西太后は英語を学ぶなど、一転して西洋文化を取り入れ始めました。

この西洋文化を取り入れる方針を光緒新政といいます。

光緒新政を進めるためには、1300年以上続けてきた科挙を廃止しなければいけません。
こうして、1904年に行われた科挙を最後に、科挙は廃止されました。

まとめ

科挙が行われた時期と問題点、廃止された理由を紹介しました。

科挙は598年から1904年までの約1300年間行われました。

当初、科挙は画期的な制度でしたが、約1300年の間に、政治の役に立たない、反乱のきっかけになるなどの問題点が浮かび上がりました。
また、欧米諸国が官吏登用試験を用いるようになると、科挙は時代遅れになりました。
義和団事件で清が敗北したことをきっかけに、政権を握っていた西太后が光緒新政を進め、科挙は廃止されました。

1300年間も続いた科挙を廃止するには、西太后も覚悟が必要だったのではないでしょうか。

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