科挙の受験資格、例外が認められた時代

科挙に合格すれば、家柄に関係なく、官吏に登用された中国。
欧米諸国で貴族政治が長期間行われていたことを考えると、科挙という官吏登用試験は画期的な制度でした。

でも、家柄に関係ないからといって、誰でも科挙を受験できたわけではありません。
科挙には受験資格がありました。

科挙の受験資格、例外が認められた時代を紹介します。

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科挙の受験資格は?

科挙を受験するためには、国立学校を卒業していなければいけません。
科挙は倍率が高く、難易度の高い試験として知られていますが、国立学校の入学試験も難易度が高いです。
というのも県試、府試、院試の3次試験まで行われるからです。

おゆう
おゆう

科挙の受験資格には国立学校を卒業していることが挙げられますが、国立学校での授業は科挙に特化したものではありませんでした。

そのため、国立学校に入学した後は、学校の授業を適当にこなして、科挙の自習に励む生徒がほとんどでした。

国立学校には、歳試という定期試験がありました。
現在でいう中間試験や期末試験ですね。
定期試験で優秀な成績を修めた生徒は地方官に任命され、逆に成績が悪い生徒は、停学処分や退学処分になったりしました。

国立学校を卒業すると、念願の科挙を受験できます。
科挙は郷試、会試、殿試の3次試験まで行われました。

1次試験である郷試は、貢院に2泊して解答します。
2泊3日に及ぶ試験は3回行われました。
つまり、合計9日間かけて郷試が行われたんですね。

郷試に合格すると、2次試験である会試を受験できます。
会試は郷試と同じく、2泊3日の試験が3回行われました。
会試に合格すると、科挙の合格者として認められ、進士として官吏に登用されました。

おゆう
おゆう

でも、科挙の試験は会試で終わりではありません。

殿試という3次試験があります。
殿試は会試の成績上位10名が受けられる特別な試験。
皇帝自らが審査して順位をつけ、順位が高いものから高い官職が与えられました。

会試までの試験では頭の良さが問われますが、殿試では皇帝が受験生を気に入るかどうかという皇帝の気分次第で順位が決められました。

整理すると、科挙を受験するためには国立学校を卒業していることが求められ、科挙の最終試験を受験するためには、郷試と会試に合格していることが求められたんですね。

女性、商人、俳優、前科者などは、科挙を受験することができませんでした。
唐の詩人で有名な李白は商人の家に生まれたため、科挙を受験できなかったといわれています。

例外が認められた時代とは?

女性には科挙の受験資格が与えられなかったと紹介しましたが、実は一度だけ、女性に科挙の受験資格が与えられた時代があります。

おゆう
おゆう

太平天国の時代です。

1851年に洪秀全が建国した太平天国では、1853年に女性だけを受験者の対象にした科挙が実施されました。

「女性の扱い」というテーマで、論文を書かせるという今までとは全く異なる試験問題。
200人が受験し、傅善祥が成績第1位に、鐘秀英が成績第2位に、林麗花が成績第3位になりました。

でも、科挙に合格した女性に与えられた仕事は東王府の秘書で、上司と共に夜を過ごさなければいけないこともありました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

そのため、娘に科挙を受けさせたくないという両親が続出。

次回以降、女性の受験者はゼロになり、1854年以降、女性だけを受験者の対象にした科挙は行われませんでした。

成績第1位となった傅善祥は、太平天国で洪秀全に続くNo.2の楊秀清の秘書になりました。
太平天国では男女平等やアヘン禁止などが唱えられ、傅善祥が公布文を書いたといわれています。

まとめ

科挙の受験資格、例外が認められた時代を紹介しました。

科挙を受験するためには国立学校を卒業していることが求められ、受験者は県試、府試、院試の3次試験を経て、国立学校に入学しました。
国立学校を卒業した後、郷試、会試に合格すると、進士として官吏に登用され、殿試に合格すると、より高い官職に就くことができました。

女性や商人には科挙の受験が認められませんでしたが、男女平等を唱える太平天国の時代には、女性だけを受験者の対象にした科挙が行われました。

合格率が注目される科挙ですが、科挙の受験資格を得るのも大変だったんですね。

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