梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)の甥・蕭正徳の協力を得て、侯景は兵を失うことなく建康にたどり着くことができましたが、建康城をなかなか陥落できず、侯景は皇子が兵を率いてやってきたらどうしようと援軍を恐れていました。
ところが、待てど暮らせど、援軍はやってきませんでした。
待てど暮らせどって、侯景は待ってないでしょ。
何故、皇子は兵を率いて建康にやってこなかったのでしょうか。
侯景討伐に武帝(蕭衍)の皇子が駆けつけなかった理由を紹介します。
実は武帝(蕭衍)の皇子は駆けつけていた!
皇子は兵を率いて建康にやってこなかったと紹介しましたが、実は、武帝の皇子は兵を率いて建康に向かっていました。
皇子が率いていた兵は100万人を超え、当時、侯景が率いていた兵10万人の10倍にあたります。
つまり、梁軍が侯景軍を包囲すれば、侯景軍はひとたまりもなかったんです。
侯景は皇子が兵を率いてやってくることを恐れ、侯景は武帝に(偽の)和議を申し出ました。
でも、皇子の率いる兵は建康に到着しませんでした。
皇子が駆けつけなかった理由
建康に駆けつけながらも到着しなかった援軍。
では、皇子は兵を率いて何をしていたのでしょうか。
実は、皇子は建康から少し離れた場所で、侯景が建康城を攻撃するのを傍観していたんです。
傍観していた理由は、兵を率いる皇子間に生まれた猜疑心が関係していました。
武帝の第1皇子である皇太子・蕭統は、531年に30歳の若さで亡くなりました。
蕭統の長男・蕭歓が皇太孫に冊立されるはずでしたが、武帝は第3皇子・蕭綱を皇太子に冊立しました。
①武帝と蕭統の仲が険悪だったから
②蕭歓が幼かったから
です。
蕭歓を思いやってこその決断でしたが、①の感情的な理由ばかりが目立ち、皇子やその兄弟間で猜疑心が芽生えてしまいました。
もし、蕭綱が亡くなれば、蕭綱の弟にチャンスが巡ってきます。
特に、第6皇子・蕭綸、第7皇子・蕭繹は皇太子の座を狙って、蕭綱に対抗心を燃やしました。
皇族内で猜疑心が芽生えたり、対抗心を燃やしたりしているのに、皇子が兵を率いて建康に集まって、侯景軍の討伐にあたったら、背後から他の皇子に攻められて、侯景軍との挟み撃ちにあうかもしれません。
実際、第8皇子・蕭紀は侯景の討伐に向かうふりをして、蕭繹が統治する江陵(湖北省荊州市)を襲おうとし、蕭繹が応戦する事態となりました。
1石は150kgなので、3万トンもの米を廃棄したことになります。
また、蕭繹に仕える武将・王僧弁が侯景の討伐に出発する前、蕭繹に「反乱を鎮圧した後、皇太子(蕭綱)がまだ生きていたらどうしますか?」と尋ねると、蕭繹は「蕭綱はもちろん、生きている兄弟は皆殺してしまおう」と答えました。
皇子には、侯景の討伐に乗り出すと、自分が討伐されるというリスクがあったんですね。
まとめ
侯景討伐に武帝(蕭衍)の皇子が駆けつけなかった理由を紹介しました。
皇子は兵を率いて建康に向かったものの、建康から少し離れた場所で傍観していました。
傍観していた理由は、皇族内で争いが起きてもおかしくない状況だったからです。
侯景軍の討伐にあたったら、背後から他の皇子に攻められて、侯景軍との挟み撃ちにあう可能性がありました。
武帝が蕭統の長男・蕭歓を皇太孫に冊立していれば、皇族内に猜疑心や対抗心が芽生えず、皇子は力を合わせて侯景を討伐していたかもしれませんね。
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