【斉】東昏侯(蕭宝巻)と愛された幼馴染み・潘玉児ってどんな人?

斉の第6代皇帝・東昏侯(蕭宝巻)は内向的な性格だった一方、幼馴染みだった潘玉児を側室に迎え、後宮で愛に溢れた生活を送りました。

東昏侯と潘玉児はどのような人物なのでしょうか。

東昏侯(蕭宝巻)と潘玉児の生涯を紹介します。

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東昏侯(蕭宝巻)ってどんな人?

東昏侯は483年生まれで、第5代皇帝・明帝(蕭鸞)と正妻・敬皇后の間に第2皇子として誕生しました。
名前は蕭宝巻といいます。

即位する

読書を好まず、毎日ねずみを追いかけまわすような幼少期を送っていましたが、明帝は蕭宝巻を諫めませんでした。

494年、蕭宝巻は皇太子に冊立され、498年、明帝が崩御すると、第6代皇帝・東昏侯として即位しました。

父・明帝の葬儀で、東昏侯は「喉が痛くなるから泣かない」と言いました。
また、太中大夫・羊闡(ようせん)が大泣きして、頭を床に打ち付けた時、羊闡の帽子が脱げて、ハゲ頭が露出すると、東昏侯は指さして大笑いしました。

恐怖政治を敷く

崩御する前、明帝は15歳の東昏侯を心配して、6人の重臣を選び、東昏侯をサポートするように遺詔を残しました。

ところが、東昏侯はその重臣を殺したり、また、民から欲しいものを奪ったり、通行人を馬蹄で踏みつけたりして、恐怖政治を敷きました。

東昏侯は内向的な性格で、制局監として武器を管理していた茹法珍と梅虫児以外の官吏と関わりをもとうとしませんでした。

武功を上げた蕭懿を殺す

恐怖政治に耐え切れなくなった官吏は次々と上奏して諫言しましたが、東昏侯は諫言を受け入れるどころか、上奏した官吏を殺してしまいました。

おゆう
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官吏は反乱を起こしましたが、親族である豫州(河南省洛陽市)刺史・蕭懿が鎮圧に成功。

東昏侯は蕭懿を尚書令に任命しました。

坊っちゃん
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ところが、蕭懿の功績を妬んだ茹法珍が「蕭懿がクーデターを企てている」と嘘の上奏をしました。

500年、東昏侯は茹法珍の上奏を信じて、蕭懿に自害を命じました。

蕭懿の弟・蕭衍に殺される

蕭懿が自害したと知った弟・蕭衍は、東昏侯を倒すために挙兵しました。

お嬢ちゃん
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蕭衍が挙兵したと思ってもみない東昏侯は、宮中で側室・潘貴妃と過ごしていました。

そのため、東昏侯は抵抗する間もなく殺され、501年、18歳の若さで崩御しました。

愛された幼馴染み・潘玉児ってどんな人?

潘玉児は大司馬・王敬則のもとで歌妓として働いていましたが、幼馴染みである東昏侯の目に留まって後宮に入りました。

潘玉児の名前は兪妮子といい、後宮に入って改姓しました。

東昏侯の第1皇子・蕭誦を出産した側室・黄淑儀が亡くなると、東昏侯は蕭誦を潘玉児の養子とし、育てさせました。

潘玉児が貴妃に冊立されると、潘玉児の父・潘宝慶はお金持ちを告発して財産を全て没収するなど、自由に振る舞いました。

潘玉児は足が子どものように小さく、潘玉児が足を傷めないよう、東昏侯は庭園に黄金で作った蓮の花を敷きました。

黄金を含め、蓮の花を作るのに必要な材料は全て、民から巻き上げられました。

潘玉児が歩くと蓮の花が咲くような光景に、東昏侯はうっとりし、潘玉児をますます寵愛するようになりました。

おゆう
おゆう

東昏侯には495年に結婚した正妻・褚皇后(褚令璩)がいましたが、東昏侯は潘玉児を寵愛したため、子どもを授かりませんでした。

501年、東昏侯を殺した蕭衍は、潘玉児を自分の側室に迎えようとしました。

ところが、侍中・王茂は「潘玉児は傾国の美女です」と言って大反対。

潘玉児を側室に迎えるのをやめた蕭衍に代わって、軍人の田安が潘玉児との結婚を申し出ると、潘玉児は「東昏侯から寵愛を受けたのに、皇帝ではない身分の人と再婚したくない」と言いました。

潘玉児はその場で殺されてしまいました。

まとめ

東昏侯(蕭宝巻)と潘玉児の生涯を紹介しました。

わずか15歳で即位した東昏侯は幼馴染みの潘玉児を寵愛しました。
東昏侯は褚令璩と結婚するずっと前から、潘玉児を愛していたのかもしれません。

18歳の若さで崩御した東昏侯。
東昏侯は恐怖政治を敷きましたが、少年らしい一面が垣間見えますね。

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