479年から502年まで存続した斉には、廃帝と呼ばれる皇帝が3人います。
そのうちの2人は第3代皇帝・鬱林王(蕭昭業)と第4代皇帝・海陵王(蕭昭文)です。
鬱林王、海陵王とは、どのような人物なのでしょうか。
鬱林王(蕭昭業)と海陵王(蕭昭文)の生涯を紹介します。
鬱林王(蕭昭業)ってどんな人?
鬱林王は473年生まれで、父・蕭長懋と王宝明の間に第1子として誕生しました。
名前は蕭昭業といいます。
482年、10歳で南郡(湖北省荊州市)王に封じられ、2000戸もの食邑(領地)を与えられました。
485年、斉の初代皇帝・高帝(蕭道成)と親交のあった何戢の娘・何婧英と結婚しました。
即位する
493年、皇太子だった父・蕭長懋が亡くなり、蕭昭業は皇太孫に冊立されました。
皇太孫に冊立されてから2ヶ月後、武帝が崩御し、蕭昭業は第3代皇帝・鬱林王として即位することになりました。
武帝は即位した当時20歳だった鬱林王を気遣い、武帝の第2皇子であり、鬱林王の叔父である蕭子良、武帝の従兄である蕭鸞の2人に、鬱林王の政務を補佐するように遺詔を残しました。
遺詔によって、蕭子良は司徒に、蕭鸞は尚書令に任命され、2人は鬱林王をサポートしました。
蕭鸞に実権を握られる
鬱林王は容貌が優れているうえに、周囲に優しく、皇族から慕われていましたが、蕭長懋が亡くなってから、人格が徐々に変わり出しました。
政務を放り出して、皇帝という立場にふさわしくない人々と親交を深めたり、蕭長懋と武帝の喪が明けていないにも関わらず、宴会を開いたりしました。
蕭子良が病を患って亡くなると、鬱林王の行動はエスカレート。
蕭長懋の愛人・霍氏を寵愛し、また、たった1年で国庫を使い切ってしまいました。
鬱林王自身も楊珉之を寵愛し、鬱林王、何婧英、楊珉之は三角関係となりました。
鬱林王のサポートを任された蕭鸞は、鬱林王を正すどころか煽り、蕭鸞は鬱林王が放り出した政務をこなして、朝廷で実権を握りました。
即位後1年で殺される
鬱林王は蕭鸞にすっかり乗せられていたことに気付き、実権を取り戻そうと、蕭鸞を西州(甘粛省武威市)に左遷することにしました。
在位期間はわずか1年でした。
海陵王(蕭昭文)ってどんな人?
海陵王は480年生まれで、父・蕭長懋と側室・許氏の間に第2子として誕生しました。
名前は蕭昭文といいます。
揚州刺史となる
486年、臨汝公に封じられ、輔国将軍・済陽郡(河南省開封市)太守となりました。
490年、わずか10歳で、斉で侍中を務めた王慈の娘・王韶明と結婚しました。
492年、南豫州(安徽省馬鞍山市)刺史となり、493年には、冠軍将軍に任命されました。
494年、揚州(江蘇省揚州市)刺史となりました。
即位後3ヶ月で殺される
鬱林王が蕭鸞によって廃されると、蕭鸞に擁立されて、蕭昭文は第4代皇帝・海陵王として即位しました。
即位した当時、海陵王は14歳。
鬱林王の治世でも、蕭鸞が朝廷で実権を握っていましたが、幼い海陵王に代わって蕭鸞が政務を引き続き行い、蕭鸞は権力を更に拡大しました。
蕭鸞は鬱林王の生母・王宝明と協力して、海陵王を廃したうえで殺しました。
まとめ
鬱林王(蕭昭業)と海陵王(蕭昭文)の生涯を紹介しました。
鬱林王の在位期間は1年、海陵王の在位期間は3ヶ月と短期で、朝廷で実権を握った蕭鸞によって廃され、殺されました。
蕭鸞と一緒に政務をサポートしていた蕭子良が長生きしていれば、二人の運命は変わっていたかもしれませんね。
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