【斉】鬱林王と海陵王を廃した明帝(蕭鸞)ってどんな人?

斉では、第3代皇帝・鬱林王(蕭昭業)、第4代皇帝・海陵王(蕭昭文)と、廃帝が2代にわたって続きましたが、その二人を殺して即位したのが、第5代皇帝・明帝(蕭鸞)です。

明帝とはどのような人物なのでしょうか。

明帝(蕭鸞)の生涯を紹介します。

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即位する

明帝は452年生まれで、蕭道生と江氏の間に第2子として誕生しました。

蕭道生は斉の初代皇帝・高帝(蕭道成)の異母兄です。

名前は蕭鸞といいます。

幼い頃に父・蕭道生と母・江氏が亡くなり、高帝に引き取られて育ちました。

おゆう
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491年には、弟・蕭緬(しょうべん)が37歳で死去。

血の繋がった弟を失った蕭鸞は泣き崩れ、「喪に服したい」と言って、務めていた衛尉の辞職願を出しましたが受け入れられませんでした。

493年、第2代皇帝・武帝(蕭賾)が崩御すると、生前に武帝の残した遺詔に従って、武帝の第2皇子・蕭子良と共に、第3代皇帝・鬱林王(蕭昭業)を補佐しました。

494年、蕭子良が亡くなると、蕭鸞は朝廷で実権を握り、鬱林王を廃し、また、その後に即位した海陵王(蕭昭文)を廃して、自ら第5代皇帝・明帝として即位しました。

蕭子良の死には明帝が関与していて、蕭子良を精神的に追い詰めて殺したといわれています。

皇族を次々と殺す

明帝は鬱林王や海陵王をはじめとした高帝や武帝の子孫20人を次々と殺したり、諸王を監視したりして、自らに権力を集中させました。

明帝に殺された中でも、悲運の最期を遂げたのが高帝の第7皇子・蕭鏘(しょうしょう)です。

鬱林王の在位中、朝廷で実権を握っていた明帝は鬱林王から疑われていました。
鬱林王は明帝を殺そうとしましたが、蕭鏘は明帝を庇い、明帝は殺されずに済みました。
一方、明帝が鬱林王を廃した時には、蕭鏘は全く関与しませんでした。

中立を保っていた蕭鏘は宮中で人気が高く、蕭鸞は蕭鏘に嫉妬し殺してしまいました。

自らに権力を集中させた後も、明帝の猜疑心が弱まることはなく、毒薬を準備させて、皇族を殺しました。

46歳で崩御する

やがて、まだ毒薬を飲んでいないのに、これから毒殺する皇族を思って焼香するなど、明帝の精神状態は不安定になりました。

明帝の精神状態は不安定でしたが、宗室が所有している田んぼを売ったり、地方の官吏の献上の礼を控えさせたりして、国庫の充実と官吏の休息を図りました。

また、自ら筆をとって事務を行い、政務に励みました。

498年、明帝は病を患いました。

死を恐れた明帝は道教に没頭しましたが、明帝の信仰心も虚しく、46歳で崩御しました。

まとめ

明帝(蕭鸞)の生涯を紹介しました。

鬱林王、海陵王の他、高帝や武帝の子孫を次々と殺しましたが、明帝自身は殺されることなく47歳で人生を全うしました。

自らに権力を集中させた他、国庫を充実したり、官吏を休息させたりと政策を打ち出し、政務に励んだ明帝。
この後、明帝の第2皇子・蕭宝巻の暴政によって、斉は衰退の一途をたどります。

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