【斉】宋を滅ぼした高帝(蕭道成)ってどんな人?

宋の第7代皇帝・後廃帝の治世に起きた反乱を鎮圧し、手柄を立てて、信頼を得た蕭道成。
蕭道成は宋を滅ぼして、斉を建国しました。

蕭道成とはどのような人物なのでしょうか。

高帝(蕭道成)の生涯を紹介します。

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右衛将軍・衛尉となる

高帝は427年生まれで、晋陵郡武進県(江蘇省常州市)の出身。

宋で済南郡(山東省済南市)太守や太子屯騎校尉を務めた蕭承之と陳道正の間に誕生しました。
名前は蕭道成といいます。

前漢で丞相を務めた蕭何の24世の孫だといわれています。

439年、蕭道成は劉智容を妻に迎えました。
劉智容は423年生まれで、17歳になったら、劉騎将軍・裴方明に嫁ぐことになっていました。
ところが、ある日、龍の旗と豹の尾が付いた車に乗った夢を見て、裴方明ではなく、蕭道成に嫁ぎました。

447年、雍州(陝西省西安市)刺史・蕭思話の参軍となり、その後、驍騎将軍・西陽県侯・南兗州(江蘇省揚州市)刺史となって、淮陰に出向きました。

すけさん
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出向先の淮陰では、自らお金を出して兵を募集し、軍を拡大しました。

そのため、クーデターを企てているのではないかと、宋の第6代皇帝・明帝(劉彧)から疑われてしまいましたが、処罰される前に、明帝が崩御して難を逃れました。

472年、右衛将軍・衛尉に昇進しました。

中領軍となって、禁軍を掌握する

明帝が崩御した後、第7代皇帝・後廃帝(劉昱)が即位しましたが、後廃帝は悪事を働くばかり。
474年、後廃帝の叔父で、明帝の弟である劉休範は、後廃帝の暴政に耐え切れず挙兵しました。

蕭道成はすぐに鎮圧にあたり、功績を称えられて中領軍となって、禁軍を掌握しました。

朝廷の実権を握る

蕭道成は中書監兼司徒・袁粲、尚書令兼侍中・褚淵、散騎常侍・劉秉と共に、日替わりで朝廷に入り、政務を行いました。

蕭道成、袁粲、褚淵、劉秉は四貴と呼ばれました。

蕭道成が軍権を握ったことに危機感を抱いた後廃帝は、蕭道成を暗殺しようとしましたが、蕭道成は先に手を打って後廃帝を殺しました。

そして、後廃帝の弟・劉準を擁立して、第8代皇帝・順帝として即位させました。

おゆう
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即位した順帝はわずか8歳。
政治のせの字も知らない順帝に代わって、蕭道成は朝廷の実権を握りました。

477年、蕭道成が実権を握っていることに不満を抱いた沈攸之や袁粲は挙兵しましたが、蕭道成はすぐに鎮圧しました。

反乱に失敗した沈攸之は斬られてしまいましたが、蕭道成の第1皇女・義興憲公主は、沈攸之の子ども・沈文和に嫁ぎました。

斉を建国して即位する

479年、準備を整えた蕭道成は順帝を廃して、斉を建国し、初代皇帝・高帝として即位しました。

すけさん
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即位後、宋の再興を恐れた高帝は、順帝を含む宋の皇族を皆殺しにしました。

高帝は戸籍を整備したり、部曲と呼ばれる私兵を制限したりして、国の安定化を図りました。

また、自ら質素倹約な生活に努め、55歳で崩御しました。

まとめ

高帝(蕭道成)の生涯を紹介しました。

宋で起きた反乱をすぐに鎮圧し、宋の治安維持、皇帝の権力維持に貢献した蕭道成。
ところが、蕭道成は禁軍を掌握した後、朝廷で実権を握り、最後には、宋の第8代皇帝・順帝を廃して、斉を建国しました。

高帝の才能、企みに早く気付いていれば、宋はもう少し長く存続していたかもしれませんね、

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