武帝(劉裕)が建国した宋では、420年から479年までの60年の間に、貨幣経済が浮き沈みしました。
恩倖により、貨幣経済が発展、衰退した経緯を紹介します。
貨幣経済が発展した経緯
宋の第3代皇帝・文帝(劉義隆)の在位中、恩倖と呼ばれる人々が現れました。
恩倖とは、皇帝に取り入って恩寵を受けた身分の低い者。
分かりやすくいえば、身分不相応な待遇を受けたゴマすりです。
第4代皇帝・孝武帝(劉駿)に仕えた戴法興は葛売りで、貧しい商人の出身。
学問が好きで、詩文の才能があったため、孝武帝に高く評価されて、南台侍御史兼中書通事舎人となりました。
恩倖は皇帝の小間使いをしてご機嫌を取りました。
宋では軍人上がりの官吏と貴族が朝廷を動かしていましたが、他の誰にも実権を握られたくない皇帝としては、武力を備えた官吏や貴族に権限を委任したくありません。
でも、当然自分一人では政務をこなせないので、皇帝は武力を備えていない恩倖を頼り、政務を任せるようになりました。
こうして、恩倖は皇帝という大きな後ろ盾をもちました。
戴法興の例にみられるように、実は、恩倖の多くは商人出身。
恩倖が宮廷に出入りしたことにより、町と宮廷間の商業活動が盛んになりました。
また、都・建康の南に、秦淮という小運河がありました。
また、船の発着時だけでなく、恩倖は皇帝の命令に従って税の徴収を行う際にも、賄賂を受け取りました。
受け取った賄賂には、現金もあれば、現金ではない品物もあります。
現金の欲しかった恩倖は品物を売って、現金に換えました。
莫大な財産を蓄えた恩倖は豪邸を建築したり、妓女に着物を贈ったりし、貨幣経済は急速に発展しました。
貨幣経済が衰退した経緯
恩倖の勢力の拡大、そして、賄賂の現金化によって、急速に発展した貨幣経済。
貨幣経済の急速な発展によって生じた問題が貨幣不足です。
恩倖の保有する現金全てが、町で消費されるわけではありません。
恩倖の消費しきれない現金は貯蓄に回り、経済発展と貨幣の流通速度に差が生じて、貨幣が不足するようになりました。
でも、生活に不自由のない恩倖は貨幣不足に関心がありません。
恩倖は賄賂として受け取った品物を次々と現金化し、貨幣は不足するばかりでした。
朝廷は不足した貨幣をどのように補うか、対策を迫られました。
そこで、朝廷は貨幣の数量を増すという対策をとりました。
朝廷は民間に貨幣の鋳造を委託。
不純物の入った貨幣はもちろん、偽造された貨幣まで流通し、良貨を探し求める者が続出しました。
そのため、良貨は隠されたり、一部分を削り取られて悪貨に作り替えられたりしました。
まさに、「悪貨は良貨を駆逐する」です。
あったはずの良貨が悪貨に作り替えられ、物価は高騰して、465年には商業活動ができなくなるほど、町は混乱に陥りました。
それでも、朝廷は悪貨を用いた納税を認めず、良貨を用いた納税を求めました。
民は悪貨2枚を良貨1枚と交換して納税しました。
悪貨といっても、額面は良貨と同じ。
単純に計算すると、民は2倍もの税を納めることになります。
民の暮らしは苦しくなり、物を買うことができず、良貨を保有しているお金持ちと格差が広がるばかり。
貨幣が正しく流通しなくなった宋の貨幣経済は衰退しました。
そして、民は納税から逃れるために、戸籍を書き換えたり、反乱を起こしたりするようになり、治安が悪化してしまいました。
まとめ
恩倖により、貨幣経済が発展、衰退した経緯を紹介しました。
勢力を拡大した恩倖が賄賂を現金化したことにより、宋の貨幣経済は急速に発展しましたが、やがて、貨幣が不足するようになりました。
良貨は隠され、悪貨が出回り、貨幣が正しく流通しなくなった宋の貨幣経済は衰退の一途をたどりました。
宋の貨幣経済の衰退により、民は法に逆らったり、反乱を起こしたりするようになり、宋は治安が悪化しました。
朝廷が正しい貨幣対策を採用していたら、宋はもう少し長く存続していたかもしれませんね。
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