幼少期に貧しい生活を送ったものの、宋の初代皇帝・武帝となった劉裕には、驚くエピソードがたくさんあります。
その中でも、殷仲文や劉穆之を黙らせた5つの逸話を紹介します。
寵愛した妓女に会うのを辞めた
後秦を征討した後、姚興の妓女に惚れて、政務が手に付かなくなってしまいました。
いつでも会えるように、劉裕は妓女を側室に迎えようとしましたが、謝晦が「政務が滞ったままでは困る」と言って注意すると、劉裕は妓女を側室に迎えるのを辞めるどころか、会うのを辞めました。
「熱中してしまうからいらない」
朝廷に音楽が流れていないことに不満を抱いた殷仲文は、劉裕に宮廷音楽家を迎えるように上奏しました。
「興味がないから迎えない」と答えた劉裕に対して、殷仲文が「何度も繰り返し聴いているうちに、段々分かるようになるものだ」と言うと、劉裕は「面白さが分かると、熱中してしまうからいらない」と答えました。
即位しても質素倹約に努めた
寧州から琥珀で作られた枕が献上されると、「琥珀は刀傷に効く」と言って、枕をすりつぶして兵に分け与えました。
また、広州から豪華な絹織物が献上されると、突き返したうえで、「今後は贅沢品を作らないように」と厳しく言い渡しました。
宮廷を新たに造営する必要はないとして、東晋時代に造られた宮廷を使い、釘には鉄を使いました。
皇子の食事は5皿以内で、皇女の婚礼は簡素に済ませるなど、皇族だからといって贅沢しないよう努めました。
幼い頃に貧しい生活を送っていた劉裕は、当時の苦労を忘れないよう、使っていた鋤や鍬を蔵に保管し、また、母が手縫いした労働衣を第1皇女・会稽公主に贈って、「もし、一族が贅沢な生活を送るようになったら、これを見せて戒めるように」と言いました。
第3代皇帝・文帝(劉義隆)は劉裕が保管していた鋤や鍬を見ると、恥ずかしい気持ちになりました。
また、第4皇帝・孝武帝(劉駿)は劉裕の実家を取り壊し、保管されていた葛の灯ろうや麻の蠅仏(ようふつ)を捨て、その地に、豪華な玉燭殿を建築しました。
この時、「劉裕はこんなものを大切に保管するほどの田舎者だった」と侮辱しました。
一枚の紙を6文字で埋めた
文字は書けるものの、筆の力の入れ具合を掴めず、文字が下手だった劉裕。
劉穆之は「文字が上手でも上手でなくても、どちらでもかまいませんが、文字の上手なほうが威厳はあります。練習してはいかがでしょうか」と言いました。
でも、劉裕は練習してまで文字を上手に書く気はありませんでした。
そこで、劉穆之は「大きな文字をお書きください。一文字が一尺(約30cm)に及んでもかまいません。大きな文字は威厳があります」と言いました。
劉穆之から言われたとおり、劉裕が大きな文字を書くと、一枚の紙に6文字しか書くことができませんでした。
論破されても恨まなかった
劉裕は貴族が談論する場に顔を出し、自ら談論に参加しました。
貧しい生活を送り、武力で出世してきた劉裕にとって、談論の内容はちんぷんかんぷん。
でも、貴族は武帝に気を遣い、劉裕の意見を理解したふりをしたり、同意してみせたりしました。
その中で、唯一劉裕に気を遣わず、劉裕の意見が破綻するまで論戦を繰り広げたのが鄭鮮之です。
鄭鮮之は劉裕を度々打ち負かし、談論が終わる度に、劉裕は深いため息をつきました。
その一方で、劉裕は「元々教養がないので、貴族と談論しても論破されるに決まっているのに、貴族は私に気を遣っているようだ。でも、鄭鮮之だけは遠慮しない。論破されるのは悔しいがサッパリする」と言いました。
まとめ
殷仲文や劉穆之を黙らせた武帝(劉裕)の逸話を5つ紹介しました。
豪快な一方、自ら家族を巻き込んで質素倹約に努めたり、謙虚な一面を見せたりした劉裕。
家柄に関係なく、劉裕が国のトップに立つことができたのは、劉裕の武功と人柄にあったのかもしれませんね。
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