中国王朝には、廃帝や哀帝、殤帝など、漢字から生涯をイメージできるような呼称があります。
武帝(劉裕)の第1皇子・劉義符に贈られた呼称・少帝に込められた意味を紹介します。
武帝(劉裕)の第1皇子・劉義符
劉義符は406年に、宋の初代皇帝・武帝(劉裕)と側室・張夫人の間に第1皇子として誕生しました。
皇太子になる
420年6月、武帝が宋を建国して即位すると、8月、劉義符は皇太子に冊立されました。
皇帝になる
422年5月、武帝は中書監・傅亮、司空・徐羨之、領軍将軍・謝晦に、少帝をサポートするよう言い残して崩御しました。
武帝の後を継いで、劉義符は第2代皇帝・少帝として即位しました。
武帝が崩御したと知った北魏の第2代皇帝・明元帝(拓跋嗣)は、宋国内の混乱に乗じて宋を滅ぼそうと、攻撃を開始しましたが、南兗州刺史・檀道済が北魏軍を追い返しました。
わずか2年で退位し、18歳で崩御する
武帝が崩御して喪が明けていないにも関わらず、少帝は遊び惚け、側近と宴会を開いて楽しみました。
少帝が皇帝に向いていないと判断した徐羨之は、424年5月、皇太后の命令だとして、少帝を退位させ、武帝の第2皇子である弟・劉義隆を擁立して、第3代皇帝・文帝として即位させました。
退位した少帝は呉郡の金閶亭に幽閉された後、6月、徐羨之が派遣した中書舎人・邢安泰に殺されました。
少帝に込められた意味
年少や少年などの熟語に見られるように、少には若いという意味が含まれています。
少帝とは、東アジアに存在した王朝において、即位した者の幼くして廃された皇帝、殺された皇帝に対する呼び方です。
呼び方であって、諡号ではありません。
①前188年から前184年まで在位した前漢の前少帝(劉某)
②前184年から前180年まで在位した前漢の少帝弘(劉弘)
③125年に在位した後漢の少帝懿(劉懿)
④189年に在位した後漢の少帝弁(劉弁)
⑤422年から424まで在位した宋の少帝(劉義符)
の5人の少帝がいます。
残念ながら、前少帝、少帝弘、少帝懿は生まれ年が判っていないため、何歳で崩御したかは不明です。
生まれ年が判っている少帝懿は173年生まれ(176年生まれという説もあります。)で、190年に毒殺されて崩御しました。
また、少帝は406年生まれで、424年に殺されて崩御しました。
少帝懿と少帝は18歳前後で崩御しているため、少帝と呼ばれていることが分かりますね。
まとめ
武帝(劉裕)の第1皇子・劉義符と少帝に込められた意味を紹介しました。
少帝(劉義符)は武帝の喪が明ける前に、礼に反した行動ばかり取り、司空・徐羨之によって、18歳で廃されて殺されました。
少帝とは即位した者の幼くして廃された皇帝、殺された皇帝に対する呼び方で、年齢が関係しています。
若いのに改心するチャンスが与えられないというのは、皇族の世界も大変ですね。
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