宋の初代皇帝・武帝(劉裕)は皇子である第2代皇帝・少帝(劉義符)が幼少であることを心配し、崩御する前に、2人の文官に政務をサポートするよう命じました。
少帝(劉義符)をサポートし、最終的に廃した徐羨之と謝晦の生涯を紹介します。
徐羨之ってどんな人?
徐羨之は364年生まれで、東海郡郯県(山東省臨沂市)の出身。
劉裕と共に桓玄を倒す
東晋で太子少傅主簿となり、403年、西府軍・桓玄が東晋の第10代皇帝・安帝(司馬徳宗)を廃して、桓楚を建国すると、桓玄の従兄弟・桓脩のもとで参軍になりました。
この時、後に宋を建国し、初代皇帝・武帝として即位する劉裕と出会い、404年、劉裕と共に桓玄に反旗を翻して挙兵しました。
東晋が復興すると、再び東晋で仕えました。
劉裕に賛同し、後秦討伐に貢献する
416年、劉裕が後秦の討伐を提案しました。
大臣らが皆、後秦の討伐に反対する中、徐羨之は劉裕に賛成し、後秦を討伐することが決まりました。
劉裕は兵を率いて後秦へ向かい、徐羨之は尚書左僕射兼領監軍中軍二府軍司・劉穆之と共に、都・建康で留守を務めました。
劉穆之が病死すると、徐羨之は吏部尚書・丹陽尹となりました。
劉裕は亡き劉穆之の任務を、彭城郡(江蘇省徐州市)太守・王弘に引き継ぐつもりでしたが、朝廷で徐羨之に引き継ぐことが決まり、徐羨之は尚書僕射に任命されました。
司空兼録尚書事となる
420年、劉裕が宋を建国して、初代皇帝・武帝として即位すると、徐羨之は鎮軍将軍・散騎常侍となりました。
421年には、尚書令と揚州刺史を兼任し、422年には、司空と録尚書事を兼任しました。
少帝を廃する
武帝が崩御し、武帝の第1皇子である劉義符が第2代皇帝・少帝として即位すると、武帝の遺勅に従って、少帝のサポートをすることになりました。
ところが、少帝は礼に反する行動ばかり取り、徐羨之は少帝に愛想を尽かしてしまいました。
徐羨之は少帝を廃して、武帝の第2皇子・劉義真を擁立しようと考えましたが、劉義真は詩人の謝霊運や顔延之と仲が良く、徐羨之は謝霊運と顔延之が要職に就くことを恐れました。
そこで、424年、徐羨之は武帝の第3皇子・劉義隆を擁立するべく、劉義真を弾劾して殺しました。
準備を整えた徐羨之は、少帝の母である張皇太后の命令だと称して、少帝を廃し、劉義隆を第3代皇帝・文帝として即位させました。
62歳で自害する
文帝は徐羨之に「朝廷に復帰してほしい」と何度もお願いし、425年、徐羨之は朝廷に戻りましたが、文帝から少帝を廃した罪に問われました。
処刑を恐れた徐羨之は自害し、62歳で亡くなりました。
謝晦ってどんな人?
謝晦は390年生まれで、陳郡陽夏県(河南省周口市)の出身。
土断を行う
劉裕に従って、410年に南燕(東晋の北東)の征討に向かいました。
413年には、揚州(江蘇省揚州市)と豫州(河南省駐馬店市)で、土断と呼ばれる戸籍登録を行い、人口の流出防止と税の確保に努めました。
総統宿衛となる
420年6月、劉裕が宋を建国し、初代皇帝・武帝として即位すると、領軍将軍、総統宿衛に任命されました。
422年、武帝が崩御すると、徐羨之に同じく、武帝の遺勅に従って、第2代皇帝・少帝のサポートをすることになりました。
36歳で亡くなる
徐羨之と共に、少帝を廃し、劉義隆を第3代皇帝・文帝として即位させました。
その後、荊州(湖北省荊州市)刺史となりましたが、徐羨之に同じく、文帝から少帝を廃した罪に問われて、36歳で亡くなりました。
まとめ
少帝(劉義符)をサポートし、最終的に廃した徐羨之と謝晦の生涯を紹介します。
徐羨之と謝晦は宋の初代皇帝・武帝(劉裕)の側近として活躍しましたが、第2代皇帝・少帝(劉義符)や第3代皇帝・文帝(劉義隆)からは疎まれてしまいました。
謝晦の兄・謝瞻は昇進すると命が危険にさらされると信じ、謝晦に「権力を拡大し過ぎると、悪いことが起きる」と度々警告し、武帝に謝晦を重用し過ぎないよう頼み込みました。
謝瞻は呉郡(浙江省湖州市)太守に任命されましたが、自ら豫象郡(江西省南昌市)太守を志願し、都から離れた太守となって権力を弱めるほどでした。
謝瞻の言うとおり、朝廷に深く関与しなければ、もっと長生きできたのかもしれませんね。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!