一つの王朝で廃帝は複数存在する場合、前、中、後を頭に加えて区別しますが、南朝・宋もその一つ。
第5代皇帝・前廃帝(劉子業)と第7代皇帝・後廃帝(劉昱)の生涯を紹介します。
前廃帝ってどんな人?
前廃帝は449年生まれで、宋の第4代皇帝・孝武帝(劉駿)と王皇后の間に、第1皇子として誕生しました。
名前は劉子業といいます。
幼少期を監禁状態で過ごす
451年、劉子業が2歳になった頃、父・劉駿が江州(江西省九江市)刺史に任命されました。
453年、祖父にあたる第3代皇帝・文帝(劉義隆)の第1皇子・劉劭が文帝を暗殺して即位すると、同じ皇族である劉子業は監禁され、命を度々狙われました。
事態を知った劉駿は建康に駆けつけ、劉劭を討ち、劉子業は解放されました。
皇太子になる
劉駿が孝武帝として即位すると、劉子業は皇太子に冊立されました。
456年、劉子業は何令婉と結婚し、何令婉は皇太子妃に冊立されました。
即位する
464年、孝武帝が崩御すると、劉子業は第5代皇帝・前廃帝として即位しました。
即位した前廃帝は、即位前とは人格が変わり、大臣など、朝廷の要職にある者を次々と殺しました。
465年、前廃帝に皇帝の素質がないと判断した初代皇帝・武帝の第5皇子・劉義隆は、襄陽郡(湖北省襄陽市)太守・柳元景と共に、前廃帝を廃するクーデターを計画しました。
ところが、劉義隆と柳元景の考えを知った前廃帝の側近・沈慶之が密告。
前廃帝は劉義隆と柳元景、そして、朝廷で実権を握っていた尚書左僕射・顔師伯を捕らえて処刑しました。
続いて、前廃帝の目に留まったのが、孝武帝の第8皇子・劉子鸞。
劉子鸞は孝武帝の自慢の皇子で、前廃帝は劉子鸞に嫉妬していました。
前廃帝は劉子鸞を庶民に落として自害させました。
最後に、前廃帝は劉義隆と柳元景のクーデターを密告した沈慶之を殺しました。
17歳で崩御する
母・王皇太后の病が悪化し、危篤状態になると、見舞うどころか、前廃帝は「病人がいるところには、鬼が出るから」と言って、王皇太后に近付きませんでした。
礼に反した行動ばかり取る前廃帝にしびれを切らした文帝の第11皇子・劉彧によって殺され、前廃帝は17歳で崩御しました。
後廃帝ってどんな人?
後廃帝は463年生まれで、宋の第6代皇帝・明帝(劉彧)と側室・陳貴妃の間に、第1皇子として誕生しました。
名前は劉昱(りゅういく)といいます。
陳貴妃の家は貧しく、お世辞にも後宮に迎えるのにふさわしいとは言えない家柄でしたが、陳貴妃は街で有名な美人だったため、第4代皇帝・孝武帝(劉駿)によって選ばれて後宮入りしました。
陳貴妃は12歳の若さで後宮入りし、明帝の側室となりましたが、その若さのせいか、明帝から寵愛されず、明帝は側近・李道児に陳貴妃を与えてしまいました。
見かねた孝武帝の母・路皇太后(路恵男)は、明帝に口添えし、陳貴妃は再び後宮に入って、明帝の寵愛を受けました。
間もなく劉昱を出産したため、劉昱の父が明帝なのか李道児なのか判っていません。
即位する
466年、明帝が即位すると、劉昱は皇太子に冊立され、472年、明帝が崩御すると、劉昱はわずか9歳で第7代皇帝・後廃帝として即位しました。
明帝は「守尚書令・袁粲は劉昱をサポートするように」と言い残していたため、袁粲が後廃帝のサポートにあたりました。
また、10人を超える皇族を殺しました。
皇族からクーデターを起こされる
474年、第3代皇帝・文帝(劉義隆)の第13皇子で、明帝の異母弟である劉休範は、後廃帝の暴虐さに耐えきれず、クーデターを起こしました。
後廃帝の命令を受けた右衛将軍・蕭道成はクーデターを鎮圧し、功績を称えられて、中領軍となって禁軍を掌握しました。
476年、文帝の第7皇子・劉宏の子ども・劉景素が、劉休範と同じ理由でクーデターを起こしましたが、蕭道成が再び鎮圧しました。
蕭道成の権力はますます拡大しました。
14歳で崩御する
477年7月、権力を拡大した蕭道成を恐れた後廃帝は蕭道成を排除することにしましたが、蕭道成は先手を打ち、後廃帝を殺しました。
後廃帝は14歳の若さで崩御しました。
まとめ
第5代皇帝・前廃帝(劉子業)と第7代皇帝・後廃帝(劉昱)の生涯を紹介しました。
前廃帝と後廃帝の共通点は、権力を拡大した臣下や皇族を殺したこと、そして、10代で崩御したことです。
皇族同士の争いによって、皇族間は疑心暗鬼となってしまいました。
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