唐の第9代皇帝・玄宗(李隆基)を魅了した世界三大美女の一人・楊貴妃。
実は楊貴妃の墓が日本にあるといわれていることをご存知でしょうか。
楊貴妃って中国人じゃないの?
亡くなる前に、日本に移り住んだっていうこと?
楊貴妃の死因、墓が日本の熱田神宮や山口県長門市にあるといわれている理由を紹介します。
楊貴妃の死因は?
楊貴妃が玄宗の寵愛を受けたことにより、楊貴妃の又従兄である楊国忠や姉・韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人(三国夫人)などの楊氏一族は次々と出世し、栄華を極めました。
楊国忠は宰相・李林甫や安禄山と対立し、安禄山を排除するべく、安禄山に謀反の疑いがあると上奏して、755年に安史の乱を引き起こしました。
楊貴妃が亡くなったといわれているのは、安史の乱が勃発した翌年の756年。
安史の乱が勃発したことにより、玄宗の臣下が楊氏一族に抱いていた不満が爆発。
楊国忠をはじめ、楊氏一族は馬嵬駅(陝西省咸陽市)で殺されました。
そこで、玄宗は側近・高力士に命じて、楊貴妃の首を絞めて殺しました。
安史の乱の真っ最中だったので、楊貴妃の葬儀は行われず、楊貴妃は簡素な墓に埋葬されました。
と、ここまでは、こちらのブログで紹介したお話なのですが…
後日、玄宗が楊貴妃の葬儀を行おうと、墓を掘り返したところ、楊貴妃が身に着けていた香り袋しか見つかりませんでした。
つまり、楊貴妃の遺体が墓になかったんですね。
楊貴妃の墓が日本の熱田神宮や山口県長門市にあるといわれている理由
簡素な墓とはいえ、確かに埋葬されたはずの楊貴妃。
でも、墓にあったのは香り袋だけで、遺体はありませんでした。
では、楊貴妃の遺体はどこにいったのでしょうか。
① 楊貴妃は熱田神宮の神様の生まれ変わりで熱田神宮に戻った
② 馬嵬駅で殺されず、山口県長門市に漂流して亡くなった
という2つの説があるんです。
この2つの説から、楊貴妃の墓は熱田神宮、または、山口県長門市にあるといわれています。
詳しくみていきましょう。
楊貴妃の墓が日本の熱田神宮にあるといわれている理由
愛知県、いや、日本を代表する神社・熱田神宮。
八咫鏡、天叢雲剣(草薙剣)、八尺瓊勾玉といった三種の神器のうち、草薙剣を祀っている神社として有名ですよね。
玄宗と楊貴妃が出会う前、玄宗は日本を侵攻しようと計画していました。
唐が日本を侵攻しようとしていると知った日本の神様達は会議を開き、玄宗の計画を中止させるよう、天照大神は熱田大神に命じました。
熱田大神は絶世の美女・楊貴妃に変身して、玄宗の目の前に姿を現しました。
寵愛していた武恵妃を失い、悲しみに暮れていた玄宗は楊貴妃の虜になり、日本侵攻を思いとどまらせることに成功しました。
その後、安史の乱が勃発し、馬嵬駅で玄宗の側近・高力士に首を絞め殺されると、楊貴妃の姿から熱田大神に戻り、熱田神宮に帰ったというのです。
熱田神宮の清水社(お清水さま)を奥に進むと、水が湧き出る泉があります。
泉の真ん中には、楊貴妃の墓石の一部といわれている山の形をした石があります。
泉から湧き出ている水を柄杓ですくい、墓石に3回かけると、願い事が叶うといわれています。
また、湧き水で肌を洗うと、肌のキメが整って美しくなるのだとか。
世界三大美女・楊貴妃の墓がある泉だからこそのご利益ですね。
楊貴妃の墓が山口県長門市にあるといわれている理由
日本海に面している山口県長門市は壇ノ浦の戦いで有名ですよね。
玄宗の后妃となる前、楊貴妃は玄宗の第13皇子・李瑁の正妻でした。
武恵妃を失い、悲しみに暮れていた玄宗に楊貴妃を紹介したのは、他でもない高力士。
玄宗、楊貴妃、李瑁に申し訳が立たないと思った高力士は、楊貴妃を殺さず、船に乗せて逃がしました。
船は日本海に突出した向津具(むかつく)半島の西にある唐渡口(とうどぐち)に到着。
住民の手厚い看病も虚しく、残念ながら楊貴妃は亡くなり、住民は楊貴妃を二尊院に埋葬しました。
まとめ
楊貴妃の死因、墓が日本の熱田神宮や山口県長門市にあるといわれている理由を紹介しました。
楊貴妃は高力士に首を絞められて殺されたといわれていますが、楊貴妃の墓は熱田神宮や長門市にあるといわれています。
その理由は、
① 楊貴妃は熱田神宮の神様の生まれ変わりで熱田神宮に戻った
② 馬嵬駅で殺されず、山口県長門市に漂流して亡くなった
という説があるからです。
西安市の西にある馬嵬駅は内陸部で、大きな川もなく、船で長門市まで渡るのには無理があると思いますが、楊貴妃が神様の生まれ変わりである、また、船で遠路はるばる渡日したという説にロマンを感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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