【唐】則天武后が王皇后、蕭淑妃と争った経緯、残酷な処刑方法が疑わしい理由

唐の第2代皇帝・高宗の妻として有名な則天武后。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

実は、則天武后が後妻だということをご存じでしょうか。

正妻・王皇后や側室のトップ・蕭淑妃を蹴落とし、皇后の座を勝ち取った則天武后。
何故、則天武后は王皇后や蕭淑妃と争わなければいけなかったのでしょうか。
また、本当に残酷な処刑が行われたのでしょうか。

則天武后が王皇后や蕭淑妃と争った経緯、残酷な処刑方法が疑わしい理由を紹介します。

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則天武后が王皇后や蕭淑妃と争った経緯

高宗の妻になる前、則天武后は高宗の側室でした。

おゆう
おゆう

最初から高宗の妻だったわけではないんですね。

更に遡れば、高宗の側室になる前は、第2代皇帝・太宗の側室でした。

則天武后が高宗の側室になった経緯も含めてみていきましょう。

王皇后 VS 蕭淑妃

当時、高宗には6人の后妃がいて、王皇后と蕭淑妃は激しい寵愛争いを繰り広げていました。

皇后は高宗の正妻で、魏王朝から続く太原王氏の血を引く名門出身。
外見は美しいけど、内面は堅物でした。
643年に皇太子妃に、650年に皇后になりました。

淑妃は高宗の側室で、斉梁皇室の蘭陵蕭氏の血を引く名門出身。
美女で聡明でしたが、プライドが高く傲慢でした。

正妻である王皇后は蕭淑妃より高い地位にいましたが、王皇后には子どもがいません。

おゆう
おゆう

蕭淑妃は第4皇子・李素節、第1皇女・義陽公主、第2皇女・高安公主を授かっていて、王皇后は蕭淑妃に負い目を感じていました。

子どもを授かりたかった王皇后は、高宗の寵愛を独り占めしようと、高宗から蕭淑妃を遠ざけようと画策していました。

則天武后が高宗の子どもを出産

649年に太宗が崩御し、則天武后は出家しましたが、実は、この時、既に則天武后と高宗は恋仲。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

太宗の看病をしているうちに、二人は恋に落ちていたんです。

則天武后を忘れられなかった高宗は、則天武后と密会を繰り返しました。

そうしたところ、出家している則天武后が高宗の子どもを身ごもりました。

則天武后は王皇后のスパイに

子どもを授かった則天武后に嫉妬しながらも、則天武后が名門出身ではないことに安心した王皇后は、則天武后を自分のお世話係として後宮に迎えました。

お世話係といっても、王皇后の身支度をサポートする女官はたくさんいます。

おゆう
おゆう

則天武后に任されたのは、蕭淑妃の監視と報告。
つまり、王皇后のスパイです。

則天武后から蕭淑妃の行動を聞き出した王皇后は、高宗と蕭淑妃を無事引き離しました。

王皇后と蕭淑妃 VS 則天武后

高宗と蕭淑妃を無事引き離した王皇后に、想定外の事態が起きました。

則天武后が高宗の子どもを再び身ごもったんです。

おゆう
おゆう

則天武后は第2子となる女の子を無事に出産。

高宗は王皇后からも遠ざかり、則天武后は寵愛を独占しました。

王皇后を支持する高宗の側近・長孫無忌と対立していた李義府や許敬宗は、王皇后を廃して、則天武后を皇后に冊立しようと、則天武后の後ろ盾となりました。

寵愛争いを繰り広げてきた王皇后と蕭淑妃。
でも、二人の寵愛争いは一時休戦。

二人は手を組んで、則天武后を宮廷から追い出すことにしました。

則天武后の勝利

身の危険を感じた則天武后は、自分が産んだ女の子を殺し、王皇后に罪を着せました。

おゆう
おゆう

王皇后が子どもを授かりたいと願っていることは皆が知っています。

「王皇后は嫉妬して殺したに違いない」と、則天武后の言うことを信じてしまいました。

追い詰められた王皇后は、藁にもすがる想いで祈祷しました。

当時、宮中では祈祷やまじないは禁止されていました。

祈祷した王皇后はもちろん、王皇后と手を組んだ蕭淑妃まで処刑されてしまいました。

残酷な処刑方法が疑わしい理由

王皇后と蕭淑妃が処刑された方法は有名ですよね。
手足を切り落とし、酒樽に身体を入れて、亡くなるまで酔わせたと伝わっています。
則天武后が三大悪女と呼ばれるのも納得です。

おゆう
おゆう

でも、私はこの処刑方法に無理があると思っています。

無理があると思う理由は2つです。

手足を切り落とされた時点で、出血多量で亡くなるはずだから

亡くなった後に、わざわざ酒樽に入れたとも考えにくいですよね。
少なくとも、亡くなるまで酒樽で酔わせたというのは嘘ではないかと思います。

残酷な処刑方法を選ぶと、民が則天武后を怖がるから

皇后は民から親しまれる存在でなければいけません。
手足を切り落としたうえに、亡くなるまで酒樽に入れておくなんて、想像したくもないし、想像もつきません。

おゆう
おゆう

則天武后が処刑方法を選んで実施したというより、則天武后のご機嫌を取ろうと、臣下が処刑方法を勝手に選び実施したと考えるのが妥当ではないでしょうか。

まとめ

則天武后が王皇后や蕭淑妃と争った経緯、残酷な処刑方法が疑わしい理由を紹介しました。

蕭淑妃と寵愛争いをしていた王皇后は、則天武后を利用して高宗と蕭淑妃の仲を引き裂こうと考えましたが、則天武后が寵愛を独占してしまいました。
王皇后と蕭淑妃は手を組んで、則天武后を宮廷から追い出そうと画策しましたが、則天武后は王皇后に罪を着せ、蕭淑妃と一緒に処刑しました。

二人の処刑方法はあまりにも残酷。
則天武后ではなく、臣下が処刑方法を勝手に選んだと考えるのが妥当かと思います。

幼少期に義兄弟からいじめられて育った則天武后。
則天武后は「やられる前にやる」という気持ちが人一倍強かったのかもしれませんね。

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