【唐】則天武后の側近・李義府ってどんな人?3つの悪人エピソード

唐の第3代皇帝・高宗の側室として、宮廷入りした即天武后。
則天武后が皇后になるのは、宮廷入りをしてから3年が経った655年のこと。
則天武后の手助けをした側近として、有名なのが李義府と許敬宗です。

李義府はどのような人物なのでしょうか。

則天武后の側近・李義府の生い立ち、悪人エピソードを紹介します。

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李義府の生い立ち

李義府は614年生まれで、瀛州饒陽県(河北省衡水市)の出身。


イケメンでスタイルが良く、話し上手なうえに、達筆で文書作成が得意。
出木杉君のようなデキる男でした。

中書侍中になる

20歳を過ぎた頃に、上奏文を審議する問科省の典儀(進行役)に抜擢されました。
やがて、唐の第2代皇帝・太宗から才能を認められ、監察御史、太子舎人、中書舎人などを歴任し、重用されました。
太宗の第9子である皇太子・李治(後の高宗)の身の回りのお世話を任され、高宗が即位すると、中書省のトップである中書侍中になりました。

左遷の危機を乗り越える

李義府は温厚で、いつもニコニコしていた李義府を嫌う者はいませんでしたが、実は、これは李義府の表の顔。
李義府は裏で復讐を企む陰険な性格で、李義府から嫌がらせを受けた者は高官のトップ・長孫無忌に相談しました。
李義府の裏の顔を知った長孫無忌は、李義府を朝廷から追い出す機会をうかがっていました。

ある日、高宗が長孫無忌に「政務を怠っている者はいないか」と尋ねると、長孫無忌は李義府の名前を挙げました。
李義府は左遷が決まり、長孫無忌は詔勅を書いて、中書省に提出しました。
この詔勅は翌日の朝廷で発表される予定でしたが、中書省には李義府が所属しています。
詔勅は李義府の目に触れてしまいました。

高宗と長孫無忌が自分を左遷しようとしていたことを知った李義府は、長孫無忌と対立していた則天武后の味方をすることにしました。

当時、則天武后は皇后ではなく昭儀で、王皇后派の長孫無忌と争っていたんです。
朝廷で「則天武后こそ、皇后にふさわしい」と言った李義府。
高宗と則天武后から気に入られて、左遷は取り消されました。

長孫無忌を排除し、則天武后の側近になる

李義府の名前を挙げ、詔勅まで書いた長孫無忌は恥をかかされ、李義府と長孫無忌の対立は深まりましたが、李義府は則天武后と一緒に長孫無忌から権力を奪っていきました。

王皇后が廃され、則天武后が皇后になると、李義府は中書侍郎になり、宰相に任命されました。
やがて、吏部尚書を兼務することになり、官吏の人事権を握りました。

ところが、李義府は汚職するようになり、則天武后と対立。
663年、崔州に流罪となり、3年後の666年に53歳で亡くなりました。

李義府の悪人エピソード

外面がいい李義府は李猫と呼ばれていました。
李義府は裏でどのような悪事を働いていたのでしょうか。
李義府の悪人エピソードを3つ紹介します。

官職を売っていた

吏部尚書になり、官吏の人事権を握った李義府は、官職を売っていました。
李義府にお金を渡せば、官職に就けてもらえたんです。

例えば、則天武后と敵対していた長孫無忌の孫・長孫延からお金を受け取り、司津監という河川の運送設備を整えたり、河川から田んぼに水を引いたりする官職を売りました。
決して華やかではない地味な仕事ですが、司津監は一般人が就けないような高い役職。
則天武后は長孫延が司津監を務めていることを知り、李義府を問いただしたところ、李義府が官職を売っていたことが判明しました。

罪人を無罪にして、愛人にした

夫を殺した罪で牢に入っていた淳于という罪人がいました。
淳于は誰もが目を奪われる美人。

李義府は淳于を一目見ようと、「私が尋問する」と言って、牢の見張り番にお金を渡しました。
ところが、李義府は尋問せず、淳于に取引を持ちかけました。
取引の内容は、無罪(夫を殺していないこと)にする代わりに、自分の愛人になること。
厳しい尋問や処刑が待ち受けていた淳于は、李義府の愛人になることを選びました。
「尋問した結果、淳于は無罪だった」と言って、妻子がいるにも関わらず、李義府は淳于を家に連れて帰りました。

借金した者を奴隷にした

給料に加えて、官職を売ってお金を得ていた李義府。
大金持ちの李義府から借金する者が少なくありませんでした。
でも、借金しても返済できる者はほんの一握り。
返済できない者、返済の目処が立たない者は、李義府の奴隷にされてしまいました。

李義府が亡くなると、借金の返済義務がなくなり、奴隷として扱われていた者は解放されました。

まとめ

李義府の生い立ち、悪人エピソードを紹介しました。

李義府はイケメンでスタイルが良く、仕事のデキるいい男でしたが、李猫と呼ばれるほど陰険な性格。
高宗や則天武后から気に入られ、宰相にまで昇進しましたが、汚職に手を染め、則天武后と対立し、流罪になってしまいました。

李義府がいなければ、則天武后は皇后になることが、そして、国のトップに立つことができなかったと考えると、歴史上重要な人物だといえるかもしれませんね。

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