玄宗が寵愛した后妃として有名な楊貴妃。
でも、楊貴妃には最大のライバル・梅妃がいました。
もちろん、勝ったのは楊貴妃です。
楊貴妃との寵愛争いに負けた梅妃とは、どのような人物なのでしょうか。
梅妃の生涯を6つに分けて紹介します。
710年に生まれる
梅妃は710年生まれで、泉州莆田県(福建省莆田市)の出身。
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梅妃は姓を江、名を采蘋といいます。
父は江仲遜といって、秀才科出身。
儒学者であり、医者でもある儒医と呼ばれる職業に就いていました。
英才教育を受けて育つ
30歳を過ぎて梅妃を授かった江仲遜。
当時の平均初婚年齢は14歳から16歳。
現在では、30歳を過ぎて子どもを授かることは一般的ですが、当時はとても珍しいことでした。
梅妃に英才教育を受けさせるなど、大事に大事に育てました。
そのおかげか、梅妃は9歳で詩経の周南篇と召南篇を暗唱できるようになり、また、14歳で自ら詩をつくるようになりました。
27歳で後宮に入る
737年、玄宗が最も寵愛していた武恵妃が亡くなり、27歳で玄宗の側近・高力士に選ばれて、梅妃は後宮入りしました。
スラリとした体型に美しい顔、詩才があるうえに、笛も踊りも上手。
玄宗は梅妃に夢中になり、後宮の女性は全ての才能をもつ梅妃を羨ましく思いましたが、梅妃は謙虚で控えめな性格だったため、誰からも恨まれることはありませんでした。
ライバル・楊貴妃が現れる
740年、梅妃の最大のライバル・楊貴妃が現れました。
楊貴妃が玄宗に召されると、玄宗の寵愛は楊貴妃に移りました。
楊貴妃は719年生まれで、梅妃より10歳ほど年下。
世界三大美女の一人に数えられるほど美しく、琵琶や踊りも上手でした。
全ての才能をもつ梅妃と楊貴妃。
二人の違いは体型と性格でした。
ほっそりした梅妃に対して、楊貴妃はぽっちゃり。
謙虚で控えめな性格の梅妃に対して、楊貴妃はハッキリ物言う強気な性格。
楊貴妃は梅妃を上陽宮に移すように玄宗に頼んだり、玄宗が梅妃に会いに行くと、後をこっそりつけたりして、玄宗と梅妃の仲を引き裂きました。
嫉妬して、兄・楊銛のもとに帰ることもしばしば。
玄宗は楊貴妃のご機嫌を取っているうちに、梅妃のもとを訪れなくなってしまいました。
寵愛が薄れる
梅妃は寵愛を取り戻そうと、玄宗に詩を贈りましたが、玄宗から返ってきたのは真珠のプレゼントだけ。
長い間玄宗と顔を合わせていない梅妃は、「陛下とお会いできず、涙で化粧が崩れているのに、真珠など美しいものは必要ありません」と詩を書き、玄宗に真珠を返しました。
46歳で亡くなる
755年に安史の乱が起きると、翌年、安禄山軍を恐れた玄宗は楊貴妃を連れて、長安から蜀(四川省成都市)逃げ出しました。
梅妃は井戸に身を投げて亡くなりました。
蜀に向かう道中で、楊貴妃を失った玄宗は長安に戻るなり梅妃を探しましたが、梅妃は既に亡くなっていて会うことはできませんでした。
ここまで梅妃の生涯を紹介しましたが、実は、梅妃は実在しなかったのではないかともいわれています。
じゃあ、生涯した梅妃の生涯は捏造なの?
梅妃は「梅妃伝」という作者不明の書物に登場するだけで、「旧唐書」や「新唐書」、「資治通鑑」などの唐の歴史書には登場しないんです。
体型や性格が楊貴妃とは正反対なので、楊貴妃の伝説を盛り上げるための架空の人物なのかもしれません。
もし、梅妃が楊貴妃の伝説を盛り上げるための架空の人物だとしたら、1400年も前から、小説を盛り上げる技術があったことになります。
私達の知らない面白い小説が、たくさんあったかもしれません。
タイムスリップしたい。
まとめ
梅妃の生涯を5つに分けて紹介しました。
謙虚で控えめな性格の梅妃は楊貴妃との寵愛争いに負け、安史の乱が起きると、長安に置き去りにされ、悲しい最期を迎えました。
楊貴妃を失い、長安に戻ってすぐに梅妃を探した玄宗。
虫のいい話ですが、心の中では梅妃を想っていたのかもしれませんね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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