唐を衰退に導いた安史の乱。
安史の乱では李郭と呼ばれる、李光弼、郭子儀の二人の将軍が大活躍しました。
ところが、李光弼は晩年に人望を失って、この世を去りました。
李光弼に何があったのでしょうか。
李光弼の生涯を8つに分けて紹介します。
708年に生まれる
李光弼は708年生まれで営州(遼寧省朝陽市)の出身。
また、母・李氏は左玉欽衛将軍・李楷固の娘でした。
契丹が敗北し、契丹軍のほとんどが突厥に降伏する中、李楷固は唐に降伏しました。
李楷固は則天武后から左玉欽衛将軍に任命され、唐軍を率いて、残った契丹軍を征討しました。
李光弼の先祖は左威衛大将軍や経略軍副使など、将軍職を務めました。
仮病を使って、朔方副節度使を辞退する
将軍の家系に生まれた李光弼も計略に長け、左衛親府左郎将や安北都護府、朔方都虞候などを歴任しました。
749年には河西副節度使、752年には単于副都護に就任しました。
754年、安禄山の従兄の朔方節度使・安思順は、李光弼を朔方副節度使にしてほしいと玄宗に申し出ました。
実は、安思順は李光弼の才能に惚れ込んで、自分の娘を李光弼に嫁がせたいと思っていたんです。
安思順の考えを知った李光弼は仮病を使って、朔方副節度使を辞退しました。
郭子儀の推薦で、河東節度使に任命される
その後、同じく李光弼の才能に惚れ込んでいた隴右節度使・哥舒翰が、李光弼を長安に呼び戻すように上奏し、李光弼は長安に戻りました。
すると、長安に戻った李光弼に、転機が訪れます。
安史の乱です。
755年11月、楊国忠の排除を目的に、范陽、平盧、河東節度使・安禄山が史思明と共に反乱を起こしました。
唐の第9代皇帝・玄宗は封常清や高仙芝、哥舒翰を潼関(陝西省渭南市)へ送り、郭子儀を朔方節度使に任命しました。
李光弼が自信をもって提案した策は用いられたことがなく、李光弼は郭子儀を無能な上司だと思っていました。
郭子儀が李光弼を河東節度使に推薦した時、李光弼は郭子儀の本心を知りました。
郭子儀は李光弼の才能を高く評価していましたが、李光弼の策を簡単に受け入れると、李光弼はつけあがってしまうと心配していたんです。
李光弼は誤解していたことを郭子儀に打ち明けて謝罪しました。
この頃、安禄山が洛陽を陥落し、燕を建国して、大燕聖武皇帝と称して即位しました。
史思明を迎撃し、常山を陥落する
河東節度使に就任した後、河北采訪使に任命された李光弼は、1万3000人の兵を率いて、戦いがずっと続いていた常山(河北省石家荘市)に向かいました。
史思明が翌朝常山にやって来ることを知った李光弼は、常山の城に500人の兵を配備して、弓矢で史思明軍を迎撃しました。
史思明軍が退却すると、退却方向に配備した伏兵に襲わせ、史思明は命からがら逃げだしました。
常山を陥落した李光弼は、疲弊した兵に酒を振る舞い、その家族を労いました。
また、郭子儀と共に史思明を攻撃して、安禄山がいる洛陽と史思明がいる范陽を繋ぐ道を遮断し、安禄山を孤立させました。
20分の1の兵で、史思明を撃退する
756年8月、玄宗が第10代皇帝・粛宗に譲位し、安史の乱の鎮圧を任せると、粛宗は李光弼を戸部尚書に任命。
5千人の兵を与えて、霊武(寧夏回族自治区銀川市)から太原(山西省太原市)に向かわせました。
10万人の兵を率いる史思明とたった5千人の兵を率いる李光弼では、勝敗はみえています。
史思明軍は李光弼軍に簡単に勝てるものだと思っていました。
ところが、李光弼は5千人の兵で史思明軍を追い返しました。
ここで、敗北した史思明に、ニュースが飛び込んできます。
なんと、安禄山が次男・安慶緒に暗殺され、安慶緒が燕の第2代皇帝に即位したんです。
燕のトップになった安慶緒は、史思明を洛陽に呼び戻しました。
史思明が後任の蔡希徳を太原に向かわせたところ、李光弼は蔡希徳を大破しました。
この功績が認められて、758年、李光弼は司空に就きました。
唐軍の実権を握る
安禄山を失い、安慶緒の味方をする意義を感じなくなった史思明は唐に降伏しました。
すると、史思明が唐に反旗を翻すと考えた李光弼は、史思明を暗殺するように上奏しました。
暗殺計画を知った史思明は唐を離れ、安慶緒のもとへ戻りました。
李光弼や郭子儀、王思礼、魯炅、許叔冀達は、史思明と安慶緒の連合軍と戦うことになりました。
安史の乱勃発以降、勝利を収めてきた李光弼と郭子儀は「李郭」と呼ばれ、名将として唐で期待されていました。
ところが、郭子儀が進軍した途端、強風が吹き、視界を遮られ、唐軍は大混乱。
李光弼と王思礼は部隊の立て直しに成功しましたが、その他の将軍は立て直しに失敗し、多くの兵を失ってしまいました。
朝廷内外で実権を握っていた宦官・魚朝恩は郭子儀の責任を問い、粛宗は朔方の兵を李光弼に統率するように命じました。
こうして、李光弼は唐軍のトップに立ちました。
安史の乱を終結させる
759年3月、史思明が安慶緒を殺し、史思明が燕の第3代皇帝に即位しました。
李光弼は史思明軍を破り続け、760年、中書令、太尉に任命されました。
761年2月、史朝義が史思明を殺し、史朝義が燕の第4代皇帝に即位しました。
762年、第11代皇帝・代宗のもとで、李光弼は史朝義を破り、洛陽を再び奪還しました。
763年1月、史朝義が自害し、安史の乱は終結を迎えました。
代宗の勅命を無視し続け、57歳で亡くなる
安史の乱において、李光弼は最初から最後まで軍を指揮し、乱を鎮圧に導きました。
李光弼のおかげで、唐に平和が戻ってきました。
ところが、李光弼の功績に嫉妬していた人物がいました。
郭子儀に敗戦の責任を言及した魚朝恩と驃騎大将軍・程元振です。
魚朝恩と程元振から反感を抱かれていると知った李光弼は、二人を恐れて、長安に戻りませんでした。
8月、郭子儀の部下・僕固懐恩が唐に反旗を翻し、吐蕃と共に長安に攻めました。
代宗は陝州(河南省三門峡市)に逃げ、李光弼に助けを求めましたが、李光弼は長安にかけつけませんでした。
代宗は李光弼の家族を大切にすることで、李光弼が安心して長安に戻れると考えていましたが、李光弼は長安に戻りませんでした。
かつて、安史の乱で名将とうたわれてきた李光弼でしたが、代宗の勅命を無視し続けたため、李光弼を尊敬していた武将達は軽蔑し始めました。
764年8月15日、徐州(江蘇省徐州市)にて、李光弼は57歳で病死しました。
まとめ
李光弼の生涯を8つに分けて紹介しました。
将軍の家系に生まれた李光弼。
李光弼自身も、左衛親府左郎将をはじめ、河東節度使や河北采訪使などを歴任し、安史の乱において大活躍しました。
ところが、安史の乱を鎮圧した後は、宦官・魚朝恩や程元振を恐れ、長安に戻らず、代宗の勅命を無視し続けました。
代宗のもとに姿を現さないまま亡くなりましたが、代宗は李光弼に太保を追贈しました。
プライドが高く、気が強かった李光弼でさえも宦官を恐れました。
それだけ、中唐における宦官の権力が強大だったんですね。
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