唐を衰退に導いた安史の乱では、唐の名将が次々と命を落としました。
この命を落とした名将の中で、とても固い絆で結ばれた二人の武将がいました。
封常清と高仙芝です。
高仙芝は世界史の教科書で取り上げられる人物なので、今回は教科書で取り上げられない封常清にスポットを当てたいと思います。
封常清の生涯を6つに分けて紹介します。
安西で育つ
封常清の生まれ年は不明で、蒲州(山西省運城市)の出身。
高仙芝と出会う
封常清の幼い頃の記録はなく、どのような幼少期を過ごしたのかは不明ですが、30歳を過ぎた頃、封常清に転機が訪れます。
都知兵馬使・高仙芝との出会いです。
当時から高仙芝は有名な武将で、封常清は高仙芝に憧れていました。
高仙芝が目の前に現れると、封常清は高仙芝の部下になりたいと志願しました。
でも、封常清の体型は戦闘向きではありませんでした。
というのも、封常清は足が短く、更に、足が不自由だったんです。
高仙芝から「兵士には向いていない」と断られましたが、封常清は高仙芝に認めてもらおうと、高仙芝の自宅の前に座り込んで何日も懇願し続けました。
封常清に根負けした高仙芝は、封常清が部下になることを認めました。
折衝校尉に任命される
741年、高仙芝が達奚討伐を命じられ、封常清は高仙芝と共に、碎葉城(キルギス共和国チュイ州)へ向かいました。
報告書には、高仙芝の知りたい情報が全て書かれていました。
封常清は才能が認められて、畳州(甘粛省甘南チベット族自治州)地下戉主に昇進し、その後、折衝校尉に任命されました。
高仙芝から留守を任される
747年、高仙芝が小勃律国(ギルギット)を討伐し、安西四鎮節度使に昇進しました。
高仙芝の昇進に伴い、封常清は慶王府録事参軍、朝散大夫に任命され、安西四鎮の倉庫や屯田、武器、営田を統括することになりました。
高仙芝が安西を離れている間は、封常清が留守を任され、高仙芝に代わって政務を行いました。
封常清は鄭徳詮を処刑してしまいましたが、高仙芝は封常清を咎めませんでした。
安西四鎮節度使に任命される
751年、高仙芝が河西(甘粛省以西)節度使に転任し、封常清は河西判官に任命されました。
752年には、封常清自身が安西四鎮節度使に、754年には、御史大夫に任命されました。
安史の乱で敗北し、処刑される
755年、安史の乱が始まると、「洛陽に行って、安禄山を倒す」と玄宗に約束し、范陽・平盧節度使に任命されました。
范陽・平盧節度使は安禄山が任命されていた役職です。
そのため、封常清が動かすことのできる兵には限りがありました。
封常清は兵を急いで募集し、集まった6万人の兵を率いて洛陽へ向かいました。
でも、兵は寄せ集めで、戦闘能力は高くなく、封常清は安禄山軍に負けて、安禄山の洛陽進入を許してしまいました。
洛陽を守った李憕、盧奕、蔣清は斬られ、河南尹・達奚珣は安禄山に降伏しました。
封常清は退却時に木をなぎ倒して、追ってくる安禄山軍を足止めしました。
陜郡(河南省三門峡市)まで退却した時、封常清を助けるべく駆けつけた高仙芝と出会いました。
二人が戦略を話し合ったところ、潼関を守り抜くことが大事だという結論に至りました。
二人はこの戦略を玄宗に報告しました。
ところが、戦場を見ていない玄宗や官吏は、安禄山軍を積極的に攻撃するべきだと言って、二人の戦略を聞き入れませんでした。
それどころか、二人は安禄山に敗北した罪で処刑されてしまいました。
高仙芝に恨みを抱いていた監軍・辺令誠が、二人が安禄山に敗北したことを玄宗に報告したんです。
先に処刑された封常清に、高仙芝は「私が封常清を抜擢し、封常清は私に次いで節度使になった。そして、今度は、私が封常清に次いで処刑される。まさに運命だ」と声をかけたと伝わっています。
まとめ
封常清の生涯を6つに分けて紹介しました。
高仙芝に憧れて、武将になった封常清。まさか高仙芝と共に最期を迎えるとは思っていなかったでしょう。
封常清と高仙芝が処刑された後、哥舒翰が潼関に向かい、封常清と高仙芝の戦略に同じく、潼関を守ります。
他の武将も潼関を守り続けることこそ勝利への道だと進言しましたが、楊国忠の失策によって、哥舒翰は潼関から出ざるを得ず、安禄山軍に敗北してしまいます。
玄宗が封常清と高仙芝の戦略を認めて、潼関を守り続けていれば、安史の乱はもっと早くに終結したかもしれませんね。
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