1400年もの時を越えて、チベットで人気の高い文成公主。
文成公主は中国王朝・唐の出身で、チベットの人間ではありません。
何故、文成公主はチベットで人気なのでしょうか。
その答えでもある文成公主の生涯と太宗が吐蕃に課した試験を紹介します。
文成公主ってどんな人?
文成公主の幼少期の記録はなく、名前、生年月日、両親などは一切不明ですが、623年に生まれたのではないかといわれています。
また、父は唐の初代皇帝・高祖の甥・李道宗である可能性が高いと考えられています。
吐蕃の国王・グンソン・グンツェンに嫁ぐ
文成公主が史書に登場するのは641年。
文成公主が吐蕃(唐の西部にあった国。現在のチベット)に嫁いだ記録が残っています。
634年、吐蕃は唐に公主の降嫁を求めました。

どうして、吐蕃は唐からお嫁さんをもらいたかったの?
当時、吐蕃は南東部にあった南詔と争っていました。
もし、吐蕃が南詔と戦っている間に、唐から攻められたら、吐蕃は不利になってしまいます。

吐蕃は唐の公主を降嫁させることで、唐と姻戚関係を結び、唐を味方につけたいと考えていました。
ところが、唐の第2代皇帝・太宗は吐蕃の要求を拒否しました。
すると、吐蕃は唐に度々侵入していた吐谷渾を攻撃し、唐を援助しました。
借りを返すべく、640年、太宗は吐蕃に文成公主を降嫁させることにしました。
文成公主が吐蕃に降嫁したのは、641年のこと。
文成公主は吐蕃の国王・グンソン・グンツェンに嫁ぎました。

グンソン・グンツェンは、吐蕃を建国した初代国王・ソンツェン・ガンポの子どもです。
紹介したように、文成公主の父は李道宗である可能性が高く、太宗の実の子ではありません。
でも、ソンツェン・ガンポは黄河の源流付近にある柏梅まで文成公主を迎え出て、厚くもてなしました。
賢く、気立ての良い文成公主を気に入ったソンツェン・ガンポは、唐の邸宅を参考にして豪華な邸宅を建て、文成公主を住まわせました。

この邸宅が有名なポタラ宮です。
また、吐蕃には顔を赤く染める赭面という習慣がありましたが、文成公主が馴染めなかったため廃止しました。
吐蕃に嫁いで以降、商人が唐と吐蕃を盛んに行き来するようになり、文化交流が発展しました。
例えば、お茶を飲む習慣、家屋に住む習慣が吐蕃に伝わりました。また、吐蕃の貴族の子どもが唐の都・長安を訪れ、詩文を学びました。
642年、文成公主はグンソン・グンツェンとの間に、マンソン・マンツェンを授かりました。
ところが、翌年、643年にグンソン・グンツェンが落馬し崩御。
文成公主はグンソン・グンツェンを供養しようと、ラサにラモチェ寺を建立しました。

1歳のマンソン・マンツェンを即位させるわけにいかず、ソンツェン・ガンポが復位しました。
吐蕃の国王・ソンツェン・ガンポに嫁ぐ
646年、グンソン・グンツェンが崩御してから3年喪に服した後、文成公主はソンツェン・ガンポと再婚しました。

文成公主は義父と再婚したんですね。
ソンツェン・ガンポは581年生まれ。
つまり、23歳の文成公主は、65歳のソンツェン・ガンポと再婚したことになります。
ところが、649年にソンツェン・ガンポは崩御してしまいました。
当時8歳という若さではありましたが、マンソン・マンツェンが即位し、宰相陣がマンソン・マンツェンをサポートしました。
ところが、676年にマンソン・マンツェンが崩御してしまいます。
夫2人と子どもを失った文成公主は、唐に帰らず、吐蕃で暮らし、680年、病を患って、57歳で亡くなりました。
文成公主の葬儀には大勢の人が参列したといわれています。
太宗が吐蕃に課した試験とは?
文成公主が吐蕃に嫁ぐ前、ソンツェン・ガンポの側近である宰相のガル・トンツェンが唐を訪れました。
太宗はガル・トンツェンを試そうと、「全問正解したら、文成公主を嫁がせる」と言って、4つのクイズを出しました。

4つのうち、3つは簡単なクイズでしたが、最後は難問。
同じ服を着た500人もの女性の中から、文成公主を見つけ出すというものでした。
ガル・トンツェンはもちろん、吐蕃の使節団は文成公主を見たことがありません。
顔を知らないのに、500人もの女性の中から文成公主を見つけるのは至難の業。
ところが、ガル・トンツェンは文成公主を見つけることができました。

一人だけ、花の髪飾りにミツバチが付いている女性がいたんです。
499人の髪飾りは造花で、文成公主だけが生花を髪に飾っていました。
ガル・トンツェンのおかげで、吐蕃は文成公主を迎え入れることができたんですね。
まとめ
文成公主の生涯と太宗が吐蕃に課した試験を紹介しました。
18歳で吐蕃に嫁いだ文成公主。
インターネットや旅行本もなかった当時、隣国であっても、その国の情報を仕入れることは困難でした。
全く知らない国に嫁ぐことになった文成公主は、自分の運命を恨んだかもしれません。
でも、吐蕃の国王であるソンツェン・ガンポやグンソン・グンツェンは文成公主を気に入って、厚く歓迎しました。
吐蕃の習慣を廃止するほど、意思を尊重された文成公主は、吐蕃で生きていくことに光を見出したからこそ、夫、子どもが亡くなった後も、吐蕃に住み続けることができたのではないでしょうか。
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