唐の第3代皇帝・高宗と則天武后の間に誕生した太平公主。
太平公主は48年の生涯の間に、2度も道士になり、2度も結婚しています。
何故、太平公主は2度も道士になり、2度も結婚したのでしょうか。
則天武后の娘・太平公主が2度も道士になった理由、薛紹や武攸暨と結婚した経緯を紹介します。
太平公主が2度も道士になった理由は?
太平公主が道士になった理由をみていきましょう。
初めての出家
太平公主は唐の第3代皇帝・高宗と則天武后の間に誕生しました。
則天武后はもちろん、祖母・栄国夫人も太平公主を特別可愛がりました。
でも、671年に栄国夫人が亡くなると、太平公主は栄国夫人を供養したいと言って出家しました。

出家といっても、剃髪して尼僧になったわけではありません。
剃髪の必要がない道士になりました。
また、道士といっても、お寺に住んで修行したわけではありません。

当時、太平公主は7歳。
則天武后は太平公主が宮廷から出ることを認めませんでした。
太平公主は華やかな衣装、道冠を身にまとって、宮中で道教を学びました。
2度目の出家
679年、唐と対立していた吐蕃が太平公主が吐蕃に嫁げば、唐をこれ以上攻めないと、太平公主の降嫁を要求しました。
出家し、俗世を絶った道士は結婚できないため、太平公主が道士であることを理由に、則天武后は吐蕃の要求を断ろうとしました。

でも、太平公主は宮廷から一度も出たことがありません。
吐蕃が納得しやすいように、太平公主を正式に出家させました。
薛紹や武攸暨と結婚した経緯は?
681年、太平公主は16歳になりました。

高宗と則天武后が太平公主をどんなに可愛がっていても、未婚のままにしておくわけにはいきません。
当時は15歳までに結婚する女性が多かったため、二人は太平公主の嫁ぎ先を選びました。
薛紹と結婚した経緯
太平公主の最初の結婚相手は薛紹。

薛紹は唐の第2代皇帝・太宗の第16皇女・城陽公主の子どもです。
高宗は太宗の第9皇子なので、城陽公主と高宗は兄妹。
つまり、薛紹は太平公主の従兄妹にあたります。
皇族の子どもである薛紹は裕福な暮らしをしていましたが、太平公主は高宗と則天武后から特別可愛がられて育ったお嬢様。
生活水準が下がったうえに、義両親や義兄弟と一緒に暮らさなければいけなくなった太平公主はストレスがたまりました。
688年、薛紹と結婚しストレスをためていた太平公主に、意外な展開が訪れます。

太宗の第8皇子・李貞が子ども・李沖と一緒に起こした反乱に、薛紹の兄・薛顗と薛緒が加担していたんです。
薛紹本人は反乱に加担していませんでしたが、二人の兄と一緒に処刑されてしまいました。
武攸暨と結婚した経緯
薛紹と死別して未亡人になった太平公主。
則天武后は太平公主の再婚相手を探し、右衛中郎将を務めていた武攸暨に目をつけました。

武攸暨は則天武后の伯父・武士譲の孫です。
ところが、武攸暨は既に結婚していて、子どもを授かっていました。
そこで、則天武后は武攸暨の妻子を殺して、太平公主と結婚させ、武攸暨を駙馬都尉に任命しました。
太平公主は武攸暨との間に、武崇敏、武崇行を含む4人の子どもを授かりました。

妻子の命と引き換えに、安定した地位を手に入れた武攸暨。
暮らしは裕福になったと思いますが、太平公主との間に子どもを授かった時などは複雑な気持ちだったでしょうね。
まとめ
則天武后の娘・太平公主が2度も道士になった理由、薛紹や武攸暨と結婚した経緯を紹介しました。
太平公主が2度も道士になったのは、1度目は祖母・栄国夫人の供養のため、2度目は吐蕃の降嫁要求を断るためです。
また、道士になった後、1度目は太宗の第16皇女・城陽公主の子どもである薛紹と、2度目は則天武后の伯父・武士譲の孫である武攸暨と結婚しました。
武攸暨には妻子がいたため、太平公主が武攸暨と結婚できるよう、則天武后は妻子を殺しました。
太平公主と武攸暨の間には2人の男の子、1人の女の子が誕生しますが、前妻と大事な子どもを殺された武攸暨は複雑な想いだったのではないかと思います。
太平公主の生涯について、興味のある方は↓の記事をご覧ください。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!