吐蕃と和平を保つために、唐から嫁いだ文成公主。
チベットで人気の高い文成公主ですが、文成公主に負けず人気の高い公主がもう一人います。
唐の第4代皇帝・中宗の養女・金城公主です。
金城公主とは、どのような人物なのでしょうか。
金城公主の生涯を3つに分けて紹介します。
高宗と則天武后のひ孫として生まれる
金城公主は698年生まれで、父は李守礼です。
李守礼は唐の第3代皇帝・高宗を父に、則天武后を母にもつ李賢の子ども。
つまり、李守礼は高宗と則天武后の孫であり、金城公主は高宗と則天武后のひ孫となります。
李賢は則天武后の第2皇子で、皇太子の座に就いたこともありましたが、則天武后と不仲になり、流罪に処された後、殺されてしまいました。
吐蕃に嫁ぐ
700年、唐休璟率いる唐軍が吐蕃軍に敗れました。
また、702年には、陳大慈率いる唐軍が吐蕃軍に敗れました。
唐は吐蕃にやられっぱなしだったんですね。
唐が吐蕃を恐れていたところ、吐蕃が唐に公主の降嫁を要求しました。
これまでにも、吐蕃は唐に公主の降嫁を求めていましたが、唐は要求を断り続けていました。
唐は公主を出家させたり、急いで結婚させたりして、降嫁できない理由を作り、吐蕃を納得させてきました。
でも、吐蕃に負け続けている唐に、要求を断る選択肢はありません。
中宗は金城公主を養女に迎えて、707年、吐蕃に嫁がせることにしました。
金城公主の結婚相手は、吐蕃の第4代国王であるチ・デツクツェン。
チ・デツクツェンは704年生まれで、金城公主より6歳年下です。
結婚が決まった時、チ・デツクツェンはわずか3歳だったことになります。
9歳の女の子と3歳の男の子の結婚なんて、現代では考えられません。
710年、金城公主が吐蕃に向かう日がやってきました。
中宗は侍中・紀処訥に公主を送るように言いましたが、紀処訥は吐蕃や近隣諸国について詳しくないことを理由に断りました。
続いて、中宗は中書侍郎・趙彦昭に公主を送るように言いました。
趙彦昭は引き受けるつもりでしたが、ふと心配になります。
「公主を送り届けている間に、同僚が昇進するかもしれない」と思ったんです。
唐と吐蕃の距離は2700kmを超えます。
趙彦昭が唐を離れている間に、同僚が昇進することはもちろん、中宗が趙彦昭の存在を忘れる可能性だってあります。
でも、中宗の命令を断ったら、昇進どころか、中宗に嫌われてしまうかもしれません。
そこで、趙彦昭は中宗の第8皇女・安楽公主に、「他の者に送り届けさせるように手を回してほしい」とお願いしました。
中宗は安楽公主を特別可愛がっていました。
中宗は安楽公主のお願いを聞き入れ、中宗の命令はまわりに回って、左衛大将軍河源軍使・楊矩に下され、楊矩が金城公主を送り届けることになりました。
当時、金城公主は13歳。
金城公主が一人で吐蕃で暮らすには、幼過ぎます。
金城公主と共に、亀慈楽を演奏する音楽団員や踊りに長けた芸能者、唐の工芸に長けた技術者を吐蕃に送り、中宗は金城公主を思いやりました。
その他、金城公主は吐蕃に「礼記」や「文選」などの書籍を持ち込んだといわれています。
金城公主が長安を出発する時には、中宗自ら見送り、始平県(現在の陝西省興平市)で送別会を開きました。
中宗は始平県の罪人の罪を許し、県民の労役を一年間免除しました。
また、始平県を金城県と改称しました。
41歳で亡くなる
金城公主が吐蕃に嫁いだその年、中宗は韋皇后と安楽公主に毒を盛られ、崩御してしまいました。
養父を失った金城公主は、どんなに心細かったでしょうか。
でも、両国の和平を保つために嫁いだ和蕃公主に、両親の死を悲しむ暇はありません。
中宗が崩御した後、金城公主は唐の第9代皇帝・玄宗と手紙をやり取りするようになりました。
玄宗は中宗の弟・睿宗の第3皇子。
金城公主は李守礼の娘であって、中宗の実の娘ではありませんが、中宗が養女に迎えた以上、金城公主と玄宗は従兄弟という間柄になります。
文中、金城公主は玄宗を兄と呼び、吐蕃と和平を保つよう、度々進言しました。
というのも、金城公主が吐蕃に嫁いだ後も、唐と吐蕃は繰り返し争っていたからです。
開元の治を迎えた唐は軍事力を高め、吐蕃に負けることはなくなりました。
でも、唐が吐蕃に勝てば勝つほど、金城公主の立場は危うくなります。
玄宗は進言する金城公主を咎めることなく、金城公主に感謝の気持ちを込めて手紙を送りましたが、吐蕃への攻撃を止めることはありませんでした。
もはや、金城公主が吐蕃に嫁いだ目的が失われています。
739年、金城公主は41歳で病死しました。
金城公主の死を知った玄宗は深く悲しみ、朝議を3日休みました。
まとめ
金城公主の生涯を3つに分けて紹介しました。
金城公主は唐の第4代皇帝・中宗の養女となり、吐蕃に嫁いで、唐と吐蕃の和平を保つために尽力しました。
残念ながら、中宗が崩御した後、玄宗は度々吐蕃を侵攻し、唐と吐蕃が和平を保つことはできませんでしたが、金城公主は吐蕃を出ることなく、吐蕃で41年の生涯を閉じました。
皇帝の娘である公主。
公主の中には、華やかな生活を送らず、出身国と嫁ぎ先の国の関係改善に努めていた公主がいたんですね。
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