【唐】則天武后の愛娘・太平公主ってどんな人?生涯をわかりやすく解説

則天武后といえば、中国史上唯一国のトップに立った女帝として有名ですよね。

則天武后には、太平公主という娘がいました。
則天武后の容姿、性格をそっくりそのまま受け継いだ太平公主。

太平公主はどのような人物なのでしょうか。

太平公主の生涯を11章に分けて紹介します。

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高宗と則天武后の間に生まれる

太平公主は称号であって、名前ではありません。

おゆう
おゆう

太平公主の姓は李、名前は令月です。

太平公主は唐の第3代皇帝・高宗の第4皇女、則天武后の第2皇女として、665年に誕生しました。
則天武后の第1皇女は生後100日を迎える前に亡くなっていました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

高宗と則天武后にとって、太平公主は大事な大事な娘。

高宗、則天武后からはもちろん、則天武后の母・栄国夫人からも、とても可愛がられて育ちました。

道士になる

671年、太平公主が8歳の時に、祖母・栄国夫人が亡くなり、「おばあちゃんを供養したい」という理由で出家を申し出ました。

出家とは宮廷を出て、髪を剃り、寺で修行をすること。

おゆう
おゆう

でも、高宗と則天武后は太平公主を手放したくありませんでした。

そこで、太平公主を剃髪の必要がない道士にして、太平という称号を与え、宮中で修行させることにしました。

出家する

道士になった太平公主に転機が訪れたのは、679年、15歳の時。
吐蕃が「太平公主を嫁として迎えたい」と言い出しました。

当時、吐蕃は唐の領土に度々侵入し、唐を脅かしていました。
太平公主が吐蕃に嫁げば、唐は吐蕃と和平を保つことができます。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

でも、高宗と則天武后の娘は太平公主ただ一人。

太平公主は宮廷から出て、正式に出家し、出家を理由に断りました。

薛紹に嫁ぐ

吐蕃に嫁がずに済んだ太平公主は、681年、16歳の時に、薛紹に嫁ぎました。

おゆう
おゆう

薛紹は唐の第2代皇帝・太宗の第16皇女・城陽公主の次男で、太平公主の従兄妹です。

太平公主は薛紹との間に、2人の男の子、2人の女の子を授かり、順風満帆な夫婦生活を送っていました。

未亡人になる

688年、太宗の第8皇子・李貞が、子ども・李沖と共に反乱を起こしました。
高宗は太宗の第9皇子なので、李貞は高宗の兄にあたります。

おゆう
おゆう

つまり、李貞は太平公主の叔父ですね。

李貞の反乱の目的は、則天武后から政権を奪還すること。

当時の皇帝は高宗の第8皇子・睿宗でしたが、実際に政治を行っていたのは睿宗の母である則天武后でした。
もし、則天武后が皇帝に即位したら、政権は李氏から武氏に移ります。
政権が武氏に移ったら、李氏一族は処刑されてしまうかもしれません。

処刑をおそれた李貞は則天武后を倒して、一族を守ろうと考えました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

この李貞の反乱と太平公主の間に、どんな関係があるの?

李貞の反乱はすぐに鎮圧されましたが、なんと、薛紹の兄弟が加担していたことが判明。

坊っちゃん
坊っちゃん

加担したのは薛紹の兄弟で、薛紹本人は加担していませんでした。

通常であれば、一族が罪に問われ、男性は処刑され、女性は幽閉されます。
ところが、罪に問われたのは、薛紹と加担していた兄弟だけで、太平公主と子ども4人は罪に問われませんでした。

当時、太平公主は生後1ヶ月を迎えたばかりの子どもを育っていました。
女手一つで子どもを育てる太平公主を励まそうと、則天武后は1200戸もの食封を追加で与えました。

おゆう
おゆう

通常、公主に与えられる食封は350戸。
太平公主は4倍以上の食封を与えられたんですね。

薛紹と死別した太平公主は未亡人になりました。

武攸暨と再婚する

未亡人になった太平公主の嫁ぎ先として、則天武后は武攸暨を選びました。

武攸暨は則天武后の伯父・武士譲の孫。
則天武后は娘と従兄弟の子どもを結婚させることにしたんです。

おゆう
おゆう

則天武后がいかに反乱を恐れていたかが分かりますね。

ところが、武攸暨には既に妻子がいました。

当時、男性が複数の愛人をもつことは一般的でしたが、大事な娘を武攸暨の愛人にするわけにはいきません。
そこで、太平公主が武攸暨の正妻になれるように、則天武后は武攸暨の妻子を処刑しました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

処刑の理由は一体。

お互いに配偶者を失った太平公主と武攸暨の結婚に反対する人はいません。
二人は結婚して、4人の子どもを授かりました。

坊っちゃん
坊っちゃん

太平公主は出家したのに、結婚できるの?

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

武攸暨の子どもを殺しておきながら、武攸暨との間に子どもを授かるなんて。

ツッコミどころ満載ですが、ここまで、太平公主は則天武后の敷いたレールの上を歩いてきたんですね。

朝廷に関与する

690年、睿宗が則天武后に譲位し、則天武后が皇帝に即位して、国のトップに立ちました。
則天武后は太平公主をますます可愛がり、太平公主は則天武后の側近として朝廷に関与するようになりました。

おゆう
おゆう

太平公主は容姿はもちろん、性格や能力まで、則天武后にそっくり。

則天武后を尊敬していた官吏は、太平公主にもカリスマ性を見出し、派閥をつくって、太平公主をサポートしました。

クーデターに参加し、則天武后を倒す

垂簾の政を行い、高宗に代わって、政務を行ってきた則天武后。
則天武后の高い政治能力は多くの官吏が認めていましたが、則天武后も人間。
老いには勝てません。

則天武后に若さと元気を取り戻してもらおうと、太平公主は20歳前後の張兄弟という美少年を紹介しました。

張兄弟は太平公主の愛人でした。
武攸暨はおとなしい性格で、太平公主の行動に口出ししませんでした。
太平公主は張兄弟を含むたくさんの愛人を抱えていました。

張兄弟を気に入った則天武后は、張兄弟との時間を優先し、政務を後回しにするようになりました。
張兄弟は則天武后の寵愛を傘に、宰相陣などのトップクラスの官吏にまで威張り出しました。

容姿しか取り柄のない張兄弟に媚びる官吏がいる一方、張兄弟、そして、張兄弟を寵愛する則天武后に不満を募らせる官吏がいました。

おゆう
おゆう

宰相・張柬之です。

張柬之は高宗の第7皇子・中宗に譲位させるクーデターを計画し、他の宰相に打ち明けました。

張柬之がクーデターを企てていることを知った太平公主は、クーデターに参加することにしました。

おゆう
おゆう

何故、太平公主は則天武后を倒すクーデターに参加することにしたのでしょうか。

太平公主にとって、中宗は兄。
母である則天武后から、兄である中宗に譲位しても、太平公主は権力を失いません。

そして、何より、則天武后に張兄弟を紹介したのは太平公主です。
太平公主は自分の身に災いが降りかかるのをおそれていました。

すけさん
すけさん

則天武后を倒して、中宗の味方をすることで、太平公主は自分の身を守ったんですね。

705年、張柬之のクーデターは成功し、則天武后は中宗に譲位しました。

韋皇后と安楽公主を倒す

則天武后から譲位され、皇帝になった中宗。

ところが、政権を握っているのは、中宗ではなく、中宗の妻・韋皇后と第8皇女・安楽公主でした。

則天武后に憧れていた二人は政権を握り、いつか国のトップに立ちたいと思っていました。

おゆう
おゆう

でも、「いつか」と思っていられない事件が起きます。

韋皇后と則天武后の甥・武三思の不倫が発覚したんです。

710年、不倫が世間に広がることをおそれた韋皇后は、安楽公主と一緒に、中宗を毒殺してしまいました。

兄を殺された太平公主は、「私も韋皇后に排除されるかもしれない」と心配になりました。

坊っちゃん
坊っちゃん

太平公主と同じ心配を抱えていたのが、兄・睿宗です。

皇帝が崩御したら、皇帝の子どもや兄弟が皇帝の座に就くのが一般的。
でも、国のトップに立ちたがっている韋皇后が許すわけがありません。

中宗の弟であり、太平公主の兄である睿宗も、韋皇后をおそれていました。

おゆう
おゆう

そこで、立ち上がったのが睿宗の第3皇子・李隆基です。

太平公主と李隆基は手を組んで、韋皇后と安楽公主はもちろん、韋氏一族を処刑しました。

睿宗が即位すると、これまでの功績を称えられた太平公主の権力はますます大きくなりました。

李隆基と対立する

兄・睿宗が即位し、皇帝の妹の座を得た太平公主。

でも、太平公主の悩みは尽きません。
睿宗が崩御した後、自分の権力が弱まるのではないかと心配し始めたんです。

坊っちゃん
坊っちゃん

皇太子の座には、功績を残した李隆基が就いていました。

睿宗が崩御し、李隆基が皇帝に即位したら、李隆基は叔母である太平公主を排除しようとするかもしれません。

そこで、太平公主は睿宗の第1皇子で気弱な性格の李憲を皇太子にすることにしました。

おゆう
おゆう

太平公主は李隆基を皇太子の座から引き下ろすべく、宮中に悪い噂を広めました。

太平公主が李隆基を廃そうとしていることを知った宰相・宋璟は、国の混乱を心配し、睿宗に太平公主を幽閉するよう上奏しました。

太平公主は蒲州(山西省運城市)に幽閉されましたが、太平公主を頼りにしていた睿宗は都にすぐに呼び戻しました。

そして、李隆基に危害が及ばないよう、李隆基に譲位しました。

太平公主と李隆基に気を遣った睿宗のこの行動は、二人の溝を更に深めてしまいました。

48歳で自害する

李隆基が唐の第9代皇帝・玄宗として即位すると、太平公主は玄宗を倒すクーデターを計画しました。

自分を慕ってくれる官吏を集め、クーデターの準備は順調に進んでいましたが、李隆基にバレてしまいました。

713年、玄宗は自ら兵を率いて、太平公主を攻めました。

太平公主は山寺に逃げ込みましたが、これ以上逃げることは難しいと判断し、3日後に自ら玄宗のもとへ向かいました。
玄宗は太平公主に自害するように命じ、太平公主は48歳で亡くなりました。

太平公主は薛紹との間に、薛崇訓、薛崇簡、薛氏、万泉県主を、武攸暨との間に、武崇敏、武崇行、武氏、永和県主を授かっていましたが、生き残ったのは薛崇簡ただ一人。

薛崇簡は玄宗の味方をしていたため、玄宗から李氏を与えられ、李崇簡として引き続き玄宗に仕えました。

まとめ

太平公主の生涯を11章に分けて紹介しました。

高宗と則天武后の愛娘として、可愛がられてきた太平公主。

といっても、吐蕃に嫁がせたくないという理由で出家させられたり、則天武后に結婚相手を決められたりするなど、太平公主も他の公主と同じような扱いを受けてきました。

太平公主が自分の道を歩み始めたのは、則天武后を倒すクーデターに参加した時だったのかもしれませんね。

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