【唐】開元の治の立役者・姚崇と宋璟ってどんな人?

唐の第9代皇帝・玄宗のもとで、開元の治を築いた姚崇と宋璟。

二人はどのような人物なのでしょうか。

姚崇と宋璟の生涯を紹介します。

スポンサーリンク

姚崇の生涯

姚崇は650年生まれで、陝州硤石県(河南省三門峡市)の出身。


姚崇の父・姚懿は唐の初代皇帝・高祖、第2代皇帝・太宗、第3代皇帝・高宗のもとで、硖州(湖北省宜昌市)刺史や嶲州(四川省涼山イ族自治州)都督を務めました。

そのツテで姚崇は官吏に登用され、高宗の第5皇子である皇太子・李弘の秘書官や兵部郎中などを務めました。

宰相になる

683年に高宗が崩御し、その後、第4代皇帝・中宗と第5代皇帝・睿宗が廃され、690年、則天武后が皇帝に即位しました。

則天武后が国を治めていた時代は、国内は比較的安定していましたが、異民族が唐を度々侵攻したため、外交面や軍事面で多くの課題を抱えていました。

696年、契丹が唐を侵攻した際に、契丹が文書を送ってきましたが、契丹文字を読める者がいませんでした。

そこで、姚崇は文書を翻訳し、軍事面の戦略を立てるなど、迅速に且つ的確に対応しました。
則天武后から政務処理能力を高く評価され、姚崇は宰相に抜擢されました。

亳州刺史に左遷される

則天武后が張兄弟という美少年に溺れ、政務が滞ると、705年、張柬之が則天武后に中宗への譲位を求めるクーデターを起こし、姚崇もクーデターに参加しました。

クーデターが成功し、中宗が即位すると、その功績を称えられ、姚崇は梁県侯に封じられましたが、則天武后が朝廷を去る時に涙を流したため、中宗に失礼だとして、亳州(安徽省亳州市)刺史に左遷されました。


その後、宋州(河南省商丘市)、越州(浙江省紹興市)、許州(河南省許昌市)など、各地を転々としました。

都に呼び戻されるも、すぐに左遷される

睿宗が即位すると、都に呼び戻されて中書令に任命されました。

ところが、朝廷で大きな権力を握っているのは睿宗ではなく、睿宗の妹・太平公主で、太平公主と対立した姚崇は申州(河南省信陽市)刺史に左遷されました。

宰相になる

712年に玄宗が即位すると、姚崇は都に再び呼び戻され、兵部尚書に任命され、宰相になりました。

租税負担を軽減したり、全ての男子が兵役に就く皆兵制度を撤廃したりして、民の生活の改革を行いました。

バッタの大群を捕まえる

716年、河南・河北地方でバッタが大発生し、農作物が大きな被害を受けました。

姚崇は農地に大きな穴を掘って、その穴で火を焚いてバッタを集めて、土にバッタを埋めてはどうかと考えました。

ところが、バッタによる被害は天災だから仕方がないとして、他の官吏が大反対。
姚崇は「陛下は天災に勝てる器をお持ちです」と反論し、皆を納得させました。

姚崇はバッタを捕まえる組織をつくり、河南・河北地方へ派遣し、1万トンものバッタを捕らえて、農作物の被害を食い止めました。

71歳で亡くなる

農作物の被害を食い止め、朝廷で大活躍していた姚崇に、悪いニュースが届きました。
姚崇の部下・趙誨が外国人から賄賂を受け取っていたんです。

収賄罪に問われた趙誨は死刑を言い渡されましたが、姚崇は趙誨を擁護しました。
姚崇を頼りにしてきた玄宗は趙誨を死刑に処さず、嶺南に流罪するだけで済ませました。

玄宗は姚崇に何も言いませんでしたが、二人の関係は気まずくなり、姚崇は宰相を自ら辞任しました。

玄宗は姚崇を皇太子の教育係である太子少保に任命しましたが、病気を理由に辞退し、721年、71歳で亡くなりました。

宋璟の生涯

宋璟は663年生まれで、邢州(河北省邢台市)出身。


父は衛州(河南省新郷市)司戸を務めた宋元撫です。

監察御史に抜擢される

17歳で科挙の進士科に合格し、則天武后によって監察御史に抜擢されました。

則天武后が張兄弟という美少年を寵愛すると、張兄弟にごまをする官吏が続出。
でも、宋璟はごまをするどころか、仕事をせずに、宴会ばかり開く張兄弟を批判しました。

貝州刺史に左遷される

則天武后が中宗に譲位すると、中宗によって、詔勅を審議する門下省の副長官である黄門侍郎に任命されました。
ところが、中宗の側近であり、則天武后の甥・武三思と対立したため、貝州(河北省南部)刺史に左遷されました。

楚州刺史に左遷される

睿宗が即位すると、吏部尚書に任命されましたが、則天武后の娘で、睿宗の妹である太平公主によって楚州(江蘇省淮安市)刺史に左遷されました。

筆頭宰相になる

玄宗が即位すると、今までの功績を認められて、刑部尚書に任命され、716年、引退する姚崇の推薦で、侍中を兼務し、筆頭宰相になりました。

筆頭宰相になった宋璟は5つの改革を行いました。
① 後宮の女性が政治に関与することを禁止した
② 刑法を誰でも理解しやすいように整理した
③ 公正な人事を行った
④ 他民族の侵攻に対して、(攻撃ではなく)防御を優先した
⑤ 悪銭を厳しく取り締まった
おゆう
おゆう

庶民の私からすれば、宋璟が行った改革に不自然なものはないんですが、玄宗は宋璟の改革に疲れてしまいました。

720年、玄宗は開府儀同三司に任命し、宋璟を朝廷から遠ざけました。

75歳で亡くなる

733年、宋璟は引退を申し出、洛陽の自宅に引きこもるようになりました。
737年、誰とも面会しないまま、75歳で亡くなりました。

宋璟の第4子・宋渾は諫議大夫や御史中丞などを歴任しましたが、美しい未亡人を奪って自分のもとに置いたり、収賄をしたりなど、宋璟とは正反対の行動をとりました。

まとめ

姚崇と宋璟の生涯を紹介しました。

頭がキレる一方、涙もろく、部下思いの姚崇。
そして、曲がったことが大嫌いで、悪いことは悪いと言う宋璟。

開元の治は姚崇と宋璟の改革がなければ実現しませんでした。
このような気骨のある方がいれば、日本もいい方向に変わっていくかもしれませんね。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ

タイトルとURLをコピーしました