【唐】タラス河畔の戦いで有名な高仙芝ってどんな人?生涯をわかりやすく解説

世界史の教科書に登場する高仙芝。

高仙芝はタラス河畔でアッバース朝と戦った唐の武将ですが、高仙芝が活躍したのはタラス河畔の戦いだけではありません。

数々の軍功を上げた高仙芝の生涯を5つに分けて紹介します。

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20歳で遊撃将軍になる

高仙芝の生まれ年は不明ですが、高句麗の出ではないかといわれています。

おゆう
おゆう

668年、唐が高句麗を滅ぼした時に、高句麗から唐に連行された王と同じ姓だからです。

父・高舎鶏が唐の河西軍に入っていたこともあり、高仙芝は父に連れられて安西軍に入りました。
20歳で遊撃将軍となりましたが、この時、唐では名前がまだ知られていませんでした。

小勃律を討伐する

高仙芝が唐で有名になったのは741年のこと。

河西節度使・夫蒙霊詧の部下として、高仙芝は都知兵馬使を務めていました。

達奚部落が反乱を起こしたため、夫蒙霊詧は高仙芝に討伐を命じました。
高仙芝は2000人の兵を率いて討伐し、安西副都護、四鎮都知兵馬使に任命されました。

その後、小勃律(現在のパキスタン)が反乱を起こしたため、高仙芝は封常清や李常業、辺令誠共に討伐に向かいました。

高仙芝が討伐に向かう前、安西節度使・田仁琬が度々討伐に向かっていましたが、その度に敗北していました。

高仙芝は安西を出発した後、カシュガル、パミール高原を経て、シュグニー地方へ到着。
軍を攻撃部隊、守備部隊に分けました。

高仙芝の軍は、田仁琬が敗北した小勃律と戦うことを恐れていました。
そこで、高仙芝は軍の士気を上げるために、部下を小勃律兵に変装させ、降伏する演技をさせました。

軍の士気は高まり、高仙芝は小勃律の王と皇后を捕まえ、唐に護送しました。

高仙芝の活躍により、西域の72ヶ国は唐に降伏し、唐は領土を一気に拡大しました。

安西四鎮節度使になる

高仙芝は小勃律を討伐したことを、都に直接報告しました。

坊っちゃん
坊っちゃん

えっ?夫蒙霊詧が都に報告するんじゃないの?

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

まさか、高仙芝が夫蒙霊詧に報告しなかったとか?

高仙芝から報告を受けていなかった夫蒙霊詧は、顔に泥を塗られてしまいました。
夫蒙霊詧は「まず、上司に報告するのが筋だ」と言って、高仙芝を罵倒。

夫蒙霊詧の発言はごもっともですが、唐にとって大事なのは、小勃律を討伐した高仙芝です。
唐の第9代皇帝・玄宗は夫蒙霊詧を都に呼び戻し、高仙芝を安西四鎮節度使に任命しました。

おゆう
おゆう

高仙芝の上司だった夫蒙霊詧は、高仙芝の部下になりました。

でも、高仙芝は夫蒙霊詧に丁寧に接し、高仙芝を罵倒した夫蒙霊詧は恥をかいてしまいました。

タラス河畔の戦いでアッバース朝に敗北する

749年、高仙芝は左金吾衛大将軍に任命されました。

750年、高仙芝は吐蕃と同盟を結んでいたチトラル国を攻撃。
タシュケントと独自に同盟を結んだ後、タシュケントを攻撃して王を捕らえ、財宝を略奪するなど、残酷な悪事を働きました。

敵国から奪った財宝の多くは、高仙芝の懐に入りましたが、部下が欲しがったものは気前よく配り、部下を労いました。

逃亡したタシュケント王子は、近隣諸国に唐の横暴を言いふらしました。

唐の横暴に怒ったアッバース朝は、イスラム軍10万人を援軍として派遣。
高仙芝は李嗣業、段秀実らと共に3万人の兵を率いて戦いましたが、大敗してしまいました。

都に戻った高仙芝は大敗を責められることなく、右羽林大将軍に任命されました。

756年に処刑される

755年、安史の乱が勃発しました。

玄宗の第6皇子・李琬が元帥、高仙芝が副元帥となって、安禄山軍、史思明軍の討伐に向かいました。

おゆう
おゆう

李琬は戦地に赴いていなかったため、高仙芝が軍の実質的なトップでした。

先に討伐に向かっていた封常清と陝郡(河南省三門峡市)で出会いました。

先に討伐向かっていた封常清に、高仙芝が追い付いたわけではありません。
封常清は安禄山軍の勢いに押されて、退却していたんです。

安禄山軍の動向を聞いた高仙芝は、軍事面の要塞である潼関まで退却して、潼関の守りをかためる方針に決めました。
高仙芝と封常清が潼関まで退却すると、安禄山軍は唐軍を追うのをやめて撤退しました。

おゆう
おゆう

ところが、潼関まで退却したことをよく思っていなかった辺令誠が、高仙芝と封常清は弱腰になっていると玄宗に告げ口。

資財や兵糧を盗んだという嘘の情報まで付け加えられ、立腹した玄宗は高仙芝と封常清を処刑してしまいました。

まとめ

高仙芝の生涯を5つに分けて紹介しました。

高仙芝は高句麗の王の子孫といわれています。

反乱を起こした達奚部落、小勃律を討伐するなど、高仙芝は軍功を上げましたが、同盟を結んですぐに裏切って攻撃したり、王の勅命だと偽って、敵国の大臣を呼び寄せたりするなど、卑怯な手を使う面もありました。

高仙芝が軍功を上げられたのは、単に弓矢に長けていただけではなく、軍略に長けていたからかもしれませんね。

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