世界史の教科書に登場するタラス河畔の戦い。
でも、タラス河畔の戦いがどのような戦いか、何故、教科書に登場するのかをご存じでしょうか?
タラス河畔の戦いの経過、歴史的意義を紹介します。
タラス河畔の戦いとは?
タラス河畔の戦いは751年5月から9月にかけて起きた、唐とアッバース朝の争いを指します。
タラスとは、現在のキルギス共和国にある地域の名前です。
アッバース朝は750年に建国されたイスラム王朝で、北アフリカから中央アジアまでを支配していました。
618年に建国された唐に比べて、100年以上も歴史の浅いアッバース朝でしたが、イスラム教の教理に基づいて統治を行い、国力を高めていました。
タラス河畔の戦いの経過
750年、安西節度使・高仙芝はタシュケントと同盟を結んだ後、同盟をすぐに破棄して、タシュケントを攻撃。
王を捕らえて、財宝を略奪し、王の首を長安に届けました。
逃亡したタシュケントの王子は、周辺諸国に唐の横暴を報告し、支援を要請しました。
アッバース朝のイラン東部にあるホラーサーンの総督・アブー・ムスリムは、部下・ズィヤード・イブン・サーリフに、唐の討伐を命令。
ズィヤード・イブン・サーリフは10万人の兵を率いて、唐に向かいました。
高仙芝は3万人の兵を率いて、タラス城に入りました。
唐軍が優勢でしたが、唐軍と一緒に戦っていたカルルクがアッバース朝に寝返りました。
カルルクは唐とアッバース朝の間に領土をもつ遊牧民です。
カルルクの兵を得たアッバース朝軍は、唐軍を壊滅させました。
高仙芝と共に兵を率いていた李嗣業は、退路をひらいて、高仙芝は退却に成功しました。
でも、唐軍の多くの兵が捕虜として、アッバース朝に捕らえられました。
唐軍は5万人の命を失い、2万人が捕らえられたといわれています。
タラス河畔の戦いの歴史的意義
何故、世界史の教科書でタラス河畔の戦いを学ぶのか。
それは、タラス河畔の戦いに3つの歴史的意義があったからです。
イスラム教の伝播
イスラム帝国であるアッバース朝が唐に勝利したことにより、アッバース朝が中央アジアに進出。
中央アジアにイスラム勢力が入り、ソグド人やテュルク系遊牧民などにイスラム教が浸透しました。
唐の衰退
唐が本格的に衰退するきっかけとなったのは、安史の乱です。
でも、アッバース朝に敗北したことで、唐は中央アジアのほとんどの領土を失いました。
支配していた領土の兵力をも失い、唐は安史の乱を早期に鎮圧できなかったと考えられます。
製紙法の伝来
タラス河畔の戦い以前、アッバース朝ではパピルス紙や羊皮紙を使用していました。
でも、タラス河畔の戦い以降、アッバース朝では麻を原料とした紙を使用するようになります。
というのも、アッバース朝が捕らえた唐軍の中に、紙漉き職人がいたからです。
中国では、105年、後漢の時代に、蔡倫という宦官が紙を発明しました。
捕虜が紙漉きの技術をもっていると知ったアッバース朝は、サマルカンドに捕虜を連行し、製紙工場をつくって、捕虜から製紙法を学びました。
サマルカンドは、ソグド人が商業活動を行った中心地で、現在のウズベキスタン共和国東部に位置します。
サマルは人々が出会う、カンドは町という意味をもち、その名前のとおり、昔から人々が行き交い、商業はもちろん、文化交流が盛んに行われてきました。
サマルカンドはウズベキスタン共和国の首都・タシュケントに続く第2の都市で、観光地としても大人気です。
アッバース朝に伝わった製紙法は、やがて、イラク、エジプトを経て、ヨーロッパに伝わりましたが、唐の捕虜から直々に教わった製紙法に勝るものはなく、アッバース朝で作られた紙の品質が最も高かったといわれています。
アラビア半島付近の情報入手
当時、旅行家という職業はなかったと思うので、旅人というほうが適しているかもしれません。
帰国後、「経行国」という旅行記を執筆しました。
まとめ
タラス河畔の戦いの経過、歴史的意義を紹介しました。
751年5月から9月にかけて起きたタラス河畔の戦い。
アッバース朝に敗北した唐は衰退の一途をたどることになりましたが、アッバース朝から中央アジアにイスラム教が伝播し、唐の製紙法がアッバース朝に伝来するなど、大きな歴史的意義をもちました。
是非、歴史的意義と一緒に経過も覚えてくださいね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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