唐の皇帝といえば、第2代皇帝・太宗、第9代皇帝・玄宗の2人が有名ですよね。
玄宗在位中に起きた安史の乱により、唐は衰退の一途をたどりますが、衰退を食い止め、唐を復興させようと尽力したのが第10代皇帝・粛宗です。
粛宗はどのような人物なのでしょうか。
粛宗の生涯、死因を紹介します。
粛宗の生涯
粛宗は711年生まれで、姓は李、名前は亨といいます。
父は唐の第9代皇帝・玄宗、母は側室の楊貴嬪です。
側室といっても、楊貴嬪は楊達の玄孫娘。
楊達は隋の皇族で、則天武后の祖父にあたります。
楊貴嬪は710年に宮廷入りし、懐妊しましたが、当時は則天武后の娘・太平公主が後宮と朝廷を牛耳っていて、玄宗は太平公主と対立していました。
そのため、太平公主を恐れた楊貴嬪は、中絶を望み、薬を作りました。
でも、薬を何度作っても、その度に、器を落としてしまいます。
その様子を見ていた宰相・張説は懐妊、出産は天命だと言って、楊貴嬪を説得。
711年11月、楊貴嬪は李亨を出産しました。
皇太子になる
皇太子の座には、第2皇子・李瑛が就いていましたが、玄宗の側室・武恵妃が自分の産んだ第18皇子・李瑁を皇太子にしたいと画策。
李瑛と李瑁は望んでいませんでしたが、皇太子争いが起きてしまいます。
武恵妃は宰相・李林甫の手助けを得て、李瑛を廃しました。
でも、李瑁が皇太子になる前に、武恵妃は病死しました。
738年、玄宗の側近・高力士が李亨を推薦し、李亨は皇太子になりました。
離婚する
李亨には韋氏という妻がいて、韋氏は皇太子妃になりました。
韋氏は刑部尚書・韋堅の娘で、韋堅は李林甫と対立していました。
李林甫は韋堅と隴右節度使兼河西節度使・皇甫惟明が謀反を企てていると嘘の密告をしました。
韋堅は江夏員外別駕に降格となり、自分の身に災いが降りかかるのを恐れた李亨は韋氏と離婚。
なんて薄情な男なのかしら!
離婚後、新たな皇后をすぐに冊立しませんでしたが、側室・張淑妃を寵愛しました。
玄宗と共に蜀へ向かう
755年、安史の乱が勃発。
安禄山が長安に迫り、李亨は玄宗や宰相・楊国忠、宗室と一緒に蜀へ逃げました。
馬嵬駅で楊氏一族が殺されると、楊貴妃を失った玄宗は蜀へ引き続き向かい、李亨に反乱を鎮圧するように命令しました。
李亨は朔方節度使・郭子儀がいる霊武(寧夏回族自治区銀川市)に向かい、郭子儀と合流しました。
皇帝に即位する
756年7月、側近・李輔国に勧められて、第10代皇帝・粛宗として即位しました。
第1皇子・李俶が郭子儀や第2皇子・李係と共に長安を奪還。
粛宗と玄宗は長安に戻りました。
張皇后を冊立する
張淑妃を皇后に冊立しました。
張皇后は李輔国と共に朝廷の実権を握りました。
自分に自信をもつことができない粛宗は、太上皇となった玄宗に復位してもらったほうがいいのではないかと口にすることがありました。
玄宗が復位しては、張皇后と李輔国は実権を握れなくなってしまいます。
そのため、玄宗が復位できないように、都で軟禁しました。
塩の専売制を導入
安史の乱は収束に向かっていましたが、唐の財政は底を尽きていました。
そこで、財政を確保するために、塩の専売制を導入しました。
金部郎中兼侍御史・第五琦は、塩の生産地・江淮地方(長江と淮河の河口の間)で塩の専売を開始。
成果を得られたので、全国に拡大することになりました。
全国でも成果を得られると、塩に10倍もの税をつけて販売しました。
調子に乗ってしまったんですね。
塩は庶民の生活必需品。
生活必需品に課税したことで、密売人が続出したり、国に不満を抱く者が増えたりしました。
52歳で崩御する
張皇后と李輔国に実権を握られた粛宗は病に伏せるようになりました。
761年、病が悪化し、李俶に監国を命じました。
762年、玄宗が崩御した10日後、粛宗は52歳で崩御しました。
死因は?
粛宗の死因は病ですが、抱えたストレスが病の発端になったといわれています。
粛宗がストレスを抱えることになった原因は張皇后と李輔国の横暴。
実権を握っていた張皇后と李輔国は対立していましたが、二人には共通の敵がいました。
第3皇子・李倓です。
李倓は張皇后と李輔国から疎まれるようなことをしたのでしょうか。
粛宗は張皇后を冊立する際に、宝石が付いた馬具をプレゼントしようとしました。
ところが、側近・李泌は大反対。
安史の乱によって、民が困窮し、兵が疲弊している時に、妻に高級なプレゼントを贈るのはいかがなものかと諫めたんです。
李倓は李泌の意見に賛同。
高級なプレゼントを受け取ることができなかった張皇后は李倓を嫌いになってしまいました。
また、李倓は実権を握っている李輔国が気に入らず、暗殺しようとしました。
暗殺を企てられていると知った李輔国は張皇后と結託し、「李倓は李俶を殺して、皇太子になろうとしている」と嘘の密告をしました。
生母が違うとはいえ、李倓と仲の良かった李俶は「そんなはずはない」と言って、李倓の無罪を主張しましたが、粛宗は張皇后と李輔国を信じ、李倓に自害を命じました。
李倓が自害すると、張皇后と李輔国は再び対立し始めました。
李俶と仲が悪かった張皇后は、李俶の代わりに、第2皇子・李係を皇太子の座に就けようとしていました。
ところが、李輔国は張皇后の動きを察知して、張皇后と李係を殺してしまいました。
短期間で息子2人と妻を失った粛宗はストレスがたまったのではないでしょうか。
まとめ
粛宗の生涯、死因を紹介しました。
玄宗から安史の乱の鎮圧を任された粛宗は、皇太子・李俶や郭子儀と共に安禄山・史思明に立ち向かいました。
反乱は収束に向かい、塩の専売制で財政を確保し、唐は復興しつつありましたが、張皇后や李輔国に実権を握られ、玄宗を軟禁状態に、子どもを自害に追い込むことになりました。
ストレスをため込んだ粛宗は、52歳の若さで病死しました。
世界史の教科書では、唐の皇帝として、太宗、玄宗の2人しか詳しく取り上げられません。
でも、蜀に逃げた玄宗に代わって、安史の乱の鎮圧に努めたのは粛宗です。
粛宗、その後を継いだ代宗は取り上げられてもいい皇帝ではないでしょうか。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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