【唐】甘露の変の経過と原因、後世に与えた影響

835年に唐で起きた甘露の変。

甘露の変とは、どのような事件なのでしょうか。

甘露の変の経過と原因、後世に与えた影響を紹介します。

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甘露の変の経過

甘露の変とは、835年に起きた、唐の第17代皇帝・文宗と官吏が起こした宦官誅殺未遂事件を指します。

まずは、甘露の変の経過をみていきましょう。

文宗が即位する

唐の第14代皇帝・憲宗は丹薬に溺れ、宦官・王守澄と陳弘志は虐待されていました。
憲宗を恨んだ王守澄と陳弘志は、憲宗を暗殺し、憲宗の第3皇子・李恒(りこう)を擁立して、第15代皇帝・穆宗として即位させました。

おゆう
おゆう

ところが、穆宗は即位後わずか3年で崩御し、即位した第16代皇帝・敬宗も即位後わずか2年で崩御。

王守澄は文宗を擁立しました。

宦官を排除する計画を立てる

でも、文宗は自らを擁立した王守澄に感謝するどころか、憲宗を暗殺した王守澄を恨んでいて、王守澄を排除したいと思っていました。

そこで、文宗は礼部侍郎・李訓と太僕寺卿・鄭注に相談し、宦官・仇士良と王守澄を対立させて、二人を排除することにしました。

仇士良は憲宗に仕えていて、憲宗を暗殺した王守澄を恨んでいました。
仇士良と文宗は利害が一致していましたが、文宗は宦官の権力を抑制したいと思っていたため、仇士良と王守澄の二人を排除したかったんです。

この計画を遂行するため、鄭注を鳳翔(陝西省宝鶏市)節度使に任命し、兵をもたせました。

王守澄を排除する

計画は順調に進み、冤罪をかけられた王守澄は毒酒を飲んで亡くなりました。

坊っちゃん
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あとは、仇士良を排除するだけ。

王守澄の葬儀に参列する仇士良を、鄭注が兵を率いて攻撃する予定でした。

李訓が裏切る

ところが、李訓が手柄を独り占めしたくなったんです。

仇士良だけでなく、宦官全員を排除したら、文宗から褒美をもらえるのではないかと考えた李訓は、「甘露が降った」と言って、宦官全員を集めました。

中国では、皇帝が民を思った政治を行うと、天が甘い露を降らすという言い伝えがありました。
このような瑞兆が起きると、その真偽を宦官全員で確認することになっていました。

計画が失敗する

鄭注の率いた兵は幕に隠れていましたが、大勢の宦官が集まり、幕に隠れていることがバレてしまいました。

兵に襲われると察した仇士良は、文宗を連れて逃げてしまいました。

文宗は自ら立てた計画だと言い出せず、李訓と鄭注を謀反人にするしかありませんでした。
謀反人となった二人は処刑され、仇士良は都に戻るなり、文宗を幽閉しました。

甘露の変の原因

甘露の変が起きた直接の原因は、文宗が憲宗を暗殺した王守澄を恨んだことにあります。
では、何故、一宦官である王守澄が、皇帝を暗殺するほどの権力をもっていたのでしょうか。

その理由は、第10代皇帝・粛宗の治世までさかのぼります。

玄宗の治世までの宦官

唐の第9代皇帝・玄宗の側近として有名な宦官・高力士は、玄宗の皇太子時代から仕えていました。

高力士が優秀な臣下であることを十分に知っていた玄宗は、皇帝に即位するなり、高力士を内侍省の長官である知内侍省事に任命しました。

おゆう
おゆう

知内侍省事は正三品の位で、高力士は正三品の官職を与えられた初めての宦官でした。

でも、高力士は知内侍省事に任命されたからといって威張らず、玄宗を差し置いて、朝廷の実権を握ることはなく、知内侍省事の業務だけに集中しました。

粛宗の治世以降の宦官

ところが、粛宗の側近だった宦官・李輔国は、皇太子を擁立したり、太上皇となった玄宗が復位しないように軟禁したりして、朝廷の実権を握りました。

以降、高力士のような秘書的存在の宦官は現れず、宦官は皇帝を差し置いて、朝廷を動かそうとするようになりました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

そもそも、何故、宦官は重用されたの?

宦官が重用された理由は2つあります。

子孫を残せないため、帝位を奪われる心配がないから

宦官は去勢された男性です。
そのため、女性と結婚しても、血の繋がった子どもをもつことはできません。

おゆう
おゆう

皇帝が最も恐れていたのは、帝位を奪われること。

子孫を残せない宦官は、自ら皇帝の座に就くことはないと考えられていました。

皇帝の近くにいたから

宦官は与えられた役職の仕事の他に、皇帝に服を着せたり、ご飯を準備したり、毒味をしたりと、皇帝の身支度を手伝っていました。

必然的に、宦官は皇帝にとって最も身近な存在となっていたんです。

おゆう
おゆう

宦官よりも、皇帝が恐れていたのは軍閥。

帝位を脅かす軍閥に対抗するため、宦官にある程度の権力をもたせていました。

与えられた権力はもちろん、与えられていない権力まで、宦官が行使しようとした結果起きたのが甘露の変でした。

甘露の変が後世に与えた影響

文宗の治世に起きた甘露の変。
でも、甘露の変の影響は、唐の第22代皇帝・昭宗の治世にまで及びました。

というのも、甘露の変によって、宦官が権力を更に強大化させ、自分に有益な皇帝を擁立したり、有害な皇帝や皇太子を殺したりするようになったからです。

おゆう
おゆう

仇士良によって幽閉された文宗は、「私は宦官に支配されている」と嘆きました。

宦官に支配されたのは文宗だけではありません。

文宗の崩御後に即位した武宗、宣宗は宦官に擁立されたものの、宦官の勢力の抑制、削減に努めましたが、宣宗の崩御後に即位した懿宗、懿宗の崩御後に即位した僖宗は宦官に朝廷を一任してしまいました。

仇士良は後輩の宦官に「陛下が学者と接さないように、お金を渡して、思う存分遊ばせなさい」とアドバイスしました。
宦官の結びつきがいかに強いか、よくわかりますね。

まとめ

甘露の変の経過と原因、後世に与えた影響を紹介しました。

甘露の変とは、835年に起きた、文宗と官吏が起こした宦官誅殺未遂事件を指します。

粛宗の治世以降、宦官は皇帝を差し置いて、朝廷を動かそうとするようになりました。
また、甘露の変によって、宦官が権力を更に強大化させ、皇帝は宦官に朝廷を一任するようになりました。

宦官に統治される国となってしまった唐は、滅亡へと向かいました。

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