人口が3分の1にまで減少したといわれる安史の乱。
玄宗に恨みを抱いていた安禄山は、宗室を次々と粛清しましたが、力を合わせて生き抜いたのが寧国公主、和政公主の2人です。
寧国公主と和政公主は、どのような人物なのでしょうか。
安史の乱を生き抜いた寧国公主と和政公主を紹介します。
寧国公主ってどんな人?
寧国公主は隴西成紀(甘粛省天水市)出身。
生母は不明です。
駙馬都尉・鄭巽(ていせん)に嫁ぎましたが死別。
後に、殿中監・薛康衡(せつこうこう)に嫁ぎましたが、またもや死別し、未亡人になりました。
・殿中監は皇帝の衣食住を管轄する役職
です。
755年に安禄山が挙兵し、安史の乱が勃発しました。
当然、唐は反乱を鎮圧しようとしましたが、兵のほとんどが安禄山の配下。
兵力不足の唐は反乱を鎮圧できず、近隣のウイグルに援助を要請しました。
これまで劣勢だった唐は、ウイグル軍の援助を受けて優勢になりました。
唐はウイグルに御礼をしなければいけません。
そこで、ウイグルの第2代可汗・葛勒可汗は、唐の公主降嫁を要求しました。
758年7月、粛宗は寧国公主を嫁がせることに決めました。
寧国公主が嫁ぐ前にも、唐に和蕃公主は多く存在しましたが、皇帝の実子が異民族に嫁いだのは、寧国公主が初めてです。
ところが、結婚した翌年、葛勒可汗が崩御しました。
3人の夫に先立たれ、再び未亡人になった寧国公主。
鄭巽と薛康衡は唐の官吏でしたが、葛勒可汗はウイグルの可汗です。
ウイグルの風習では、子どものいない未亡人は夫と共に埋葬されることになっていました。
「万が一、ウイグルで命を落とすようなことがあっても恨みません」とは言いましたが、寧国公主には葛勒可汗と共に埋葬される気はありません。
755年、安史の乱が勃発し、洛陽が陥落すると、第9代皇帝・玄宗は宗室を連れて、蜀(四川省成都市)へ逃げました。
この時、玄宗が蜀へ逃げることは朝廷や後宮に知らされず、和政公主をはじめ、多くの公主が長安に取り残されてしまいました。
寧国公主に続いて、可敦となった李氏は小寧国公主と呼ばれました。
和政公主ってどんな人?
和政公主は隴西成紀(甘粛省天水市)出身。
729年生まれで、粛宗と側室・呉氏の間に第3皇女として誕生しました。
つまり、代宗と和政公主は実の兄妹です。
3歳で呉氏が亡くなり、和政公主は側室・韋妃に育てられました。
聡明で、美人で、芸に秀でていて多才な和政公主は、粛宗から特に可愛がられました。
750年、皇太子のお世話係である太子洗馬・柳潭(りゅうたん)に嫁ぎ、5人の男の子、3人の男の子を授かりました。
755年、安史の乱が勃発し、洛陽が陥落すると、第9代皇帝・玄宗は宗室を連れて、蜀(四川省成都市)へ逃げました。
長安に取り残された和政公主と柳潭は、3人の子どもを連れて逃げることにしました。
すると、和政公主の目に飛び込んできたのは、薛康衡に先立たれて未亡人になった寧国公主。
和政公主は寧国公主を放っておけず、寧国公主を連れて行くことにしました。
寧国公主はお嬢様気質で、家事を一切できません。
それでも、寧国公主を見捨てることなく、和政公主は料理したり、柳潭は薪を集めたりして、夫婦で寧国公主をサポートしました。
3人の子どもを連れて、妹の世話をするなんて、優しい夫婦ですね。
6人は一日100里歩きました。
1里は3.92kmなので、392kmも歩いたことになります。
東京都から岐阜県まで歩くようなものです。
6人は無事に逃げきり、戦乱に巻き込まれず、生き延びることができました。
柳潭の兄・柳澄(りゅうちょう)は、楊貴妃の姉・秦国夫人と結婚していました。
馬嵬駅で楊貴妃をはじめ、楊氏一族が殺されることになりますが、この時、秦国夫人は和政公主に自分の子どもを託しました。
和政公主は面倒見が良かったこと、信頼されていたことがよく分かりますね。
762年、玄宗、粛宗が相次いで崩御し、代宗が即位すると、翌年、安史の乱がようやく終結しました。
ところが、唐は財政状況が厳しく、貧困に苦しむ民を救うことができません。
国庫が尽きそうになり、頭を抱えていた代宗を助けたのが和政公主です。
和政公主は私財を投げ打って、代宗と民を救いました。
和政公主の意見はほとんどが採用されました。
安史の乱が終結して8ヶ月が経った頃、吐蕃が侵入し、長安を占領しました。
身の危険を感じた和政公主は、慌てて南方に逃げました。
何も持たずに逃亡した和政公主を心配した代宗は、和政公主を援助しようとしましたが、和政公主は断りました。
一旦、吐蕃は長安から撤退しましたが、すぐに再び侵入したため、代宗は辺境の配備を強化しなければいけないと悩んでいました。
政策に頭を抱えていた代宗は、和政公主に意見を求めようと自宅を訪ねたところ、和政公主は新たな命を授かっていました。
和政公主にとって6人目の子どもが誕生しようという時、難産で35歳の若さで亡くなってしまいました。
まとめ
安史の乱を生き抜いた寧国公主と和政公主を紹介しました。
鄭巽、薛康衡の2人に嫁いだ後、ウイグルの第2代可汗・葛勒可汗に嫁ぎ、3度も未亡人になった寧国公主。
柳潭に嫁ぎ、5人の子どもを授かった和政公主。
2人の人生は全く違うものですが、2人には安史の乱を生き抜く力があったんですね。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!