唐の第3代皇帝・高宗は西部の西突厥、東部の高句麗、百済を滅ぼし、唐は領土を広げて強国となりました。
強国となった唐に、周辺諸国は遣唐使を派遣して朝貢しました。
示し合わせたわけでもないのに、各国が唐に遣唐使を派遣する時期は同じ。
唐で行われる重要な行事に合わせて、各国は遣唐使を派遣し、行事に出席させました。
各国から派遣された遣唐使が一堂に会すると、当然、席次の上下争いが起きます。
遣唐使が起こした4つの争長事件を紹介します。
日本と新羅の争長事件
753年元旦、日本は第10回遣唐使を派遣しました。
当時、日本の他に、吐蕃、新羅、大食から遣唐使が派遣されていました。
日本使が唐の朝廷に足を踏み入れると、上から新羅、大食、吐蕃、日本という席次で、唐がセッティングしていたことが判明。
副使・大伴古麻呂は、新羅は昔から日本に朝貢していると言って、日本の席次は新羅より上であるべきだと抗議しました。
唐は日本の要求を受け入れて、上から日本、大食、吐蕃、新羅という席次に変更しました。
突厥と突騎施の争長事件
730年、突厥と突騎施(テュルギシュ)から遣唐使が派遣され、宴会に出席した際、突厥の席次は突騎施の下でした。
突厥使は席次について抗議し、唐は突厥を東側に、突騎施を西側に変更し、同じ地位として扱いました。
回紇と黒衣大食の争長事件
758年5月、回紇(ウイグル)と黒衣大食(アッバース朝)から遣唐使が派遣されました。
回紇使と黒衣大食使が朝廷に入るための門をくぐろうとした時、どちらが先に門をくぐるのか、同じ門をくぐらなければいけないのかといった争いが起きました。
そこで、回紇使と黒衣大食使は左右に分かれて、東西門から入ることになりました。
渤海と新羅の争長事件
897年7月、渤海と新羅から遣唐使が派遣され、渤海の席次は新羅の下でした。
当時、渤海は国力を充実させていたことから、渤海使は席次について抗議しました。
ところが、唐の第22代皇帝・昭宗は、渤海使の要求を受け入れず、席次を変更しませんでした。
まとめ
遣唐使が起こした4つの争長事件を紹介しました。
唐では、周辺諸国や異民族をランク分けし、そのランクによって、官品を授与していましたが、朝廷や宴会における席次決めには、ランクが反映されませんでした。
最後に紹介した渤海と新羅の争長事件を除く3つの争長事件で、唐が要求を受け入れて席次を変更していることを考えると、唐にとって、席次より、争いを引き起こさないことが重要だったのではないでしょうか。
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ブログランキングに参加しているので、もし良ければクリックで応援をお願いします!