遣唐使の目的と歴史的意義をわかりやすく解説

遣隋使に続いて、630年から始まった遣唐使。
日本から唐に渡るのに、片道だけで半年かかったといわれています。
また、遭難する遣唐使船も多く、遣唐使を唐に派遣するのには大きな危険を伴いました。

なのに、何故、日本は遣唐使を唐に派遣したのでしょうか。
また、遣唐使は日本に何をもたらしたのでしょうか。

遣唐使の目的と歴史的意義を紹介します。

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遣唐使の目的

遣唐使を唐に派遣することに決めた時の日本の目的は次の4つでした。

遣唐使の当初の目的
① 中国の先進的な技術の導入
② 中国の先進的な政治制度の導入
③ 中国の先進的な文化の導入
④ 仏教の経典収集

でも、650年頃から唐と新羅が百済と対立するようになると、遣唐使の目的が変わります。
百済と友好的だった日本は、百済を守るために遣唐使を派遣して、情報収集をすることにしたんです。

日本が百済を守るとなると、日本も唐や新羅と対立する可能性が出ます。
そのため、百済を守るためだけでなく、日本自国を守るために必要な情報収集にも努めました。

663年、唐と新羅、百済の対立は白村江の戦いに発展。
日本は百済と共に、唐と新羅の連合軍と戦い、大敗してしまいました。
百済は滅亡し、唐と新羅の連合軍が日本を攻めることを恐れた日本は、遣唐使を派遣して、日本と唐の関係を改善しようと交渉に努めました。

おゆう
おゆう

第5回遣唐使から第7回遣唐使までの3回は、交渉が目的だったといわれています。

遣唐使の歴史的意義

紹介したように、遣唐使を唐に派遣した当初の目的は、
① 中国の先進的な技術の導入
② 中国の先進的な政治制度の導入
③ 中国の先進的な文化の導入
④ 仏教の経典収集
でした。

遣唐使はこの4つの目的を果たせたのでしょうか?詳しくみていきましょう。

中国の先進的な技術の導入

中国の先進的な技術の導入により、平城京をはじめとした都市づくりが行われました。

また、味噌やチーズなど、食材を発酵させる技術が取り入れられ、人々の食文化に変化が訪れました。

中国の先進的な政治制度の導入

中国の先進的な政治制度の導入によって整ったのが律令制度です。
大宝律令は701年に制定されましたが、実は、制定される20年前の681年から編纂が始まりました。

おゆう
おゆう

何故、編纂を開始してから制定するまでに20年もかかったのかというと、唐の律令制度が日本に適していなかったからです。

遣唐使が日本に持ち帰った律令制度の仕組みを、日本に適した仕組みに変える必要があったんですね。

中国の先進的な文化の導入

中国の先進的な文化の導入により、白菜やピーマン、スイカなどの種が日本に持ち帰られ、食文化に変化が訪れました。
また、五弦琵琶や輪投げ、すごろく、囲碁など、これまで日本になかった楽器やおもちゃで遊ぶようになりました。

仏教の経典収集

仏教の経典を収集したことにより、仏教が発展しましたが、仏教が発展したことにより、僧だけでなく、庶民にも肉食禁止令が出されました。

坊っちゃん
坊っちゃん

肉食禁止令は明治初期まで続きました。

お嬢ちゃん
お嬢ちゃん

お肉のない生活なんて考えられません。

でも、肉食を禁止されても、健康のためにはたんぱく質を摂取しなければいけません。
そこで、食事に取り入れられたのが、味噌やチーズなどの発酵食品です。
たんぱく質を摂取できるうえに、日持ちする発酵食品は大注目されました。

おゆう
おゆう

紹介したように、遣唐使は食材を発酵させる技術を持ち帰りました。
食材を発酵させる技術がこのような形で生かされるとは、技術を持ち帰った遣唐使も想像していなかったと思います。
世の中、うまくできているものですね。

まとめ

遣唐使の目的と歴史的意義を紹介しました。

遣唐使を唐に派遣することに決めた時の日本の目的は、
① 中国の先進的な技術の導入
② 中国の先進的な政治制度の導入
③ 中国の先進的な文化の導入
④ 仏教の経典収集
の4つでしたが、白村江の戦いの後に派遣された3回の遣唐使は、日本と唐の関係改善が目的でした。

遣唐使は律令制度の他、食材を発酵させる技術、白菜やピーマン、すごろくや囲碁など、現在の私達の生活に欠かせない食材、娯楽品を持ち帰りました。

私達の生活がはるか昔に唐に渡った遣唐使に通じていると思うと、遣唐使に感謝したくなりますね。

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