755年に勃発した安史の乱以降、宦官に朝廷の実権を握られ続けた唐。
皇帝は権力をすっかり失ってしまいましたが、907年までの約150年もの間、唐は存続します。
唐が滅亡する20年前に即位したのが第22代皇帝・昭宗、そして、唐の滅亡を見届けたのが第23代皇帝・哀帝です。
昭宗、哀帝はどのような人物なのでしょうか。
昭宗、哀帝の生涯を紹介します。
昭宗ってどんな人?
昭宗は867年生まれで、父・唐の第20代皇帝・懿宗と母・王氏の間に、第7皇子として誕生しました。
名前は李傑といいます。
872年には、寿王に封じられ、877年には、開府儀同三司や幽州(北京市)大都督など、数多くの役職を歴任しました。
といっても、年齢から考えると、李傑に与えられたのは肩書きだけで、実際には赴任して、任務に当たっていなかったと思います。
皇太子になる
888年、第21代皇帝・僖宗が病に伏せると、皇太子にふさわしい人物として、懿宗の第6皇子・李保が挙がりました。
懿宗には、第5皇子・僖宗(李儼)を含め、8人の皇子がいましたが、僖宗の弟であり、李傑の兄にあたる李保は特に聡明でした。
ところが、宦官・楊復恭が李傑を推薦したため、李傑は皇太弟となり、李保は皇太子候補から外れました。
即位する
その後、李傑は第22代皇帝・昭宗として即位しました。
司空・韋昭度を宰相に任命し、昭宗本人はあらゆる制度の本を好んで読み、政務に活かそうと努めました。
また、第18代皇帝・武宗に引けを取らず、儒教を熱心に学びました。
皇帝の座を奪われる
当時、農民による反乱が勃発していたため、軍事力を拡大して、反乱を鎮圧していました。
そこで、拡大した軍事力を活かして、昭宗は宦官から朝廷の実権を取り戻そうと考えました。
でも、辺境の守備に当たる藩鎮の反感を買い、鳳翔(陝西省宝鶏市)節度使・李茂貞が反乱を起こしました。
また、宦官から朝廷の実権を取り戻そうとしたことで、昭宗は宦官の反感を買いました。
一部の宦官がクーデターを起こし、昭宗は退位を迫られ、昭宗の第1皇子である皇太子・李裕が皇帝に擁立されました。
クーデターを起こしたのが一部の宦官っていうことは、クーデターを起こさなかった宦官がいたっていうこと?
昭宗が宦官から朝廷の実権を取り戻そうとしたからといって、全ての宦官の反感を買ったわけではありません。
昭宗を支持する宦官もいます。
昭宗を支持する宦官、支持せずに李裕を擁立する宦官に分かれ、宦官同士で対立が起こりました。
結果、昭宗は一ヶ月半後に皇帝に再び即位しました。
そのため、李裕は崩御した皇帝に贈られる廟号も与えられず、皇帝にカウントされていません。
李茂貞率いる反乱軍が長安に迫ったため、昭宗は宦官・韓全誨と共に、鳳翔に逃亡しました。
でも、鳳翔は鳳翔節度使・李茂貞にとって、庭のようなもの。
903年、李茂貞は韓全誨を殺し、昭宗は折れざるを得ず、李茂貞と唐軍・朱全忠は和議を結びました。
反乱は終結し、2年ぶりに、昭宗は長安に戻りました。
ところが、和議を結んだ李茂貞と朱全忠が朝廷の実権を争って対立。
李茂貞が敗北し、朱全忠が権力を振るいました。
朱全忠に実権を奪われる
朱全忠は宮中の5000人を超える宦官を殺し、大臣の反対を無視して、洛陽に遷都しました。
皇帝でも何もない朱全忠が遷都を決定するなんて、昭宗の立場って一体…
904年、朱全忠が派遣した養子・朱友恭によって、宮中を逃げ回ったうえ殺され、38歳で崩御しました。
哀帝ってどんな人?
哀帝は892年生まれで、父・唐の第22代皇帝・昭宗と母・何皇后の間に、第9皇子として誕生しました。
名前は李祚といいます。
897年に輝王に封じられ、903年には開府儀同三司や充諸道兵馬元帥を歴任しました。
年齢から考えると、幼少期の昭宗と同じで、李祚に与えられたのは肩書きだけだったのではないかと思います。
即位する
904年、朱全忠によって昭宗が殺された翌日に、李祚は皇太子に冊立され、李柷と改名しました。
そして、その日の昼には、昭宗の棺の前で、唐の最後の皇帝・哀帝として即位させられました。
哀帝はわずか13歳で、朱全忠の言いなりでした。
年号を改めることはなく、昭宗が定めた年号・天祐を引き続き使用しました。
朱全忠が哀帝を即位させた理由は、自身が皇帝となる準備を整える時間を確保するため。
つまり、朱全忠は哀帝を皇帝の座から近々引き下ろすつもりで、哀帝を即位させたんです。
905年2月、朱全忠は昭宗の第1皇子・李裕、第2皇子・李祤、第3皇子・李禊、第4皇子・李禋、第5皇子・李禕、第6皇子・李祕、第7皇子・李祺、第8皇子・李禛、第10皇子・李祥を宴会に招待して殺しました。
6月には、貴族出身の大臣を殺しました。
昭宗や兄弟を殺された哀帝は、近い将来、自分も同じ運命をたどることになると気付いていました。
哀帝は勇気を振り絞って声を上げましたが、朱全忠にかき消されるばかりでした。
母・何皇后を殺される
11月、哀帝が圜丘で天を祭る儀式の準備をしました。
この儀式は中国の皇帝が行うもの。
朱全忠は皇帝気取りの哀帝を恨みました。
12月には、朱全忠によって、母・何皇后が殺されました。
17歳で崩御する
即位以降、哀帝自身には災難が降りかかりませんでしたが、907年3月、ついに、朱全忠に皇帝の座を譲る時がやってきました。
朱全忠は後梁を建国し、昭宗は済陰王に封じられました。
でも、復讐を恐れた朱全忠は、哀帝を毒殺し、17歳の若さで崩御しました。
まとめ
昭宗、哀帝の生涯を紹介しました。
唐の他の皇帝同様、昭宗は宦官に運命を握られた人生を送りました。
また、哀帝は宦官ではなく、後梁の建国者・朱全忠に運命を握られた人生を送りました。
父・昭宗や兄弟を殺した朱全忠に従わなければいけなかった哀帝の気持ちを思うと、胸が締め付けられますね。
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