世界史の教科書に必ず登場する都護府と節度使。
どちらも重要用語ですが、どちらも唐王朝のページに登場するため混同しやすいです。
そこで、都護府と節度使の違いを紹介します。
都護府とは?
前漢(紀元前206年から8年)と唐(618年から907年)が周辺の異民族を統治するために設置した軍事機関を指します。
いつからいつまで存在した?
都護府の誕生は紀元前59年。
前漢の第9代皇帝・宣帝(劉詢)が烏塁城(新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州)に西域都護府を設置しました。
また、唐の第6代皇帝・中宗(李顕)によって、709年、毗陵都護衛府は北庭大都護府と改称されました。
太宗の後を継いで即位した高宗が、650年、フフホト(内モンゴル自治区フフホト市)に翰海都護府を、658年、中央アジアに濛池都護府と昆陵都護府を設置しました。
また、668年には、高句麗を滅ぼして安東都護府を、681年には、交州(ベトナム北部及び広西チワン族自治区)に安南都護府を設置しました。
役割
安西大都護府、単于大都護府、安東都護府、安北大都護府、安南都護府、北庭大都護府の6つは六都護府と呼ばれ、特に有名です。
紹介したように、都護府は周辺の異民族を統治するために設置された軍事機関。
周辺の異民族が唐に帰順した後、なんと、唐は異民族の族長を長官に任命して、その地の統治を任せました。
長官が反乱を起こさないよう、唐は都護府を設置して、長官を監視しました。
一方、長官は族長から肩書きが変わっただけで、その地を統治できることに変わりはありません。
長官はもちろん、その地に暮らす異民族も、唐の政策に反論しませんでした。
節度使とは?
唐の第9代皇帝・玄宗が、異民族の侵入に備えて配備した募兵集団の指揮官を指します。
いつからいつまで存在した?
節度使の誕生は710年。
玄宗が涼州(甘粛省西部)に河西節度使を配備しました。
当時、吐蕃と突厥が手を組んで、唐を攻める可能性があったため、7万3000人もの兵を河西節度使に託しました。
また、西突厥の侵入に備えて、亀慈(新疆ウイグル自治区アクス地区)に安西節度使を配備しました。
中でも、范陽節度使に9万1400人もの兵を、隴右節度使に7万5000人もの兵を託し、吐蕃や突厥の他、奚や契丹の侵入にも備えました。
辺境の地に、節度使を配備したことで、唐は異民族の侵入を防ぐことができましたが、755年11月、3つの節度使を兼任していた安禄山が挙兵してしまいます。
5万5000人もの兵力を抱える河東節度使、9万1400人もの兵力を抱える范陽節度使、3万7500人もの兵力を抱える平盧節度使を兼任していたため、安禄山のもとには18万3900人もの兵が集結していました。
3つの節度使を除くと、唐が動かすことのできる節度使の兵力は30万3000人となります。
でも、節度使を配備した目的は、異民族の侵入を防ぐためであり、国内の反乱を鎮圧するためではありません。
安禄山軍に対抗することができなかった唐は、安禄山に洛陽、長安を占拠されてしまいました。
安史の乱以降、唐が配備した節度使の数は50にも及びました。
役割
節度使は地方政治を監督する按察使や収支の調整を行う度支使を兼任し、軍事だけでなく、民事や財政をも統括するようになりました。
やがて、節度使の独立性が高まり、節度使を中心に地方勢力が形成され、唐はますます弱体化してしまいました。
唐が滅亡した後も、節度使は配備され続け、元王朝(1271年から1368年)に完全に廃止されました。
都護府と節度使の違いは?
都護府と節度使について紹介しましたが、違いをつかめないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
節度使は、唐(後半)が異民族の侵入に備えて配備した軍官です。
※節度使は藩鎮と呼ばれる軍事機関に属していました。
まず、都護府を設置した目的、節度使を配備した目的が異なります。
次に、組織(都護府)、個人(節度使)という違いがあります。
そして、都護府は唐の前半に設置された、節度使は唐の後半に配備されたという違いがあります。
違いを押さえておけば、テストもバッチリですね!
まとめ
都護府と節度使の違いを紹介しました。
都護府と節度使は、世界史の教科書に必ず登場する重要用語です。
違いを押さえると共に、都護府と節度使が誕生した背景を知ると、当時の中国が異民族をどれだけ恐れていたかが分かりますね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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