世界史の教科書に必ず登場する都護府と節度使。
どちらも重要用語ですが、どちらも唐王朝のページに登場するため混同しやすいです。
そこで、都護府と節度使の役割と違いを紹介します。
都護府とは?
都護府とは、唐(618年から907年)が辺境警備・周辺異民族を統治するために設置した軍事機関です。
① 安西大都護府
② 単于大都護府
③ 安東都護府
④ 安北大都護府
⑤ 安南都護府
⑥ 北庭大都護府
の6つは六都護府と呼ばれ、特に有名です。
いつからいつまであった?
都護府の前身である西域都護が誕生したのは紀元前59年。
前漢の第9代皇帝・宣帝(劉詢)が烏塁城に設置しました。
烏塁城は新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州にありました。
唐の第2代皇帝・太宗(李世民)が、
☑ 庭州(新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州)に毗陵都護衛府
☑ 新疆ウイグル自治区トルファン市に存在した高昌を滅ぼして西州都護府
を設置します。
☑ 西州都護府は安西都護府
☑ 燕然都護府は安北大都護府
と改称されました。
また、唐の第6代皇帝・中宗(李顕)によって、毗陵都護衛府は北庭大都護府と改称されました。
太宗の後を継いで即位した高宗は、
☑ 650年に、フフホト(内モンゴル自治区フフホト市)に翰海都護府
☑ 658年に、中央アジアに濛池都護府と昆陵都護府
を設置しました。
また、
☑ 668年には、高句麗を滅ぼして安東都護府
☑ 681年には、交州(ベトナム北部及び広西チワン族自治区)に安南都護府
を設置しました。
その後、都護府は、
・安史の乱で廃止される
・吐蕃や南詔に占領される
など、さまざまな影響を受けますが、10世紀まで存在したといわれています。
役割
周辺の異民族が唐に帰順した後。
唐は異民族の族長を長官(都督や州の刺史)に任命して、その地の統治を任せました(羈縻政策)。
長官が反乱を起こさないよう、長官を監視するために置かれたのが都護府です。
一方、長官は族長から肩書きが変わっただけで、その地を統治できることに変わりはありません。
長官はもちろん、その地に暮らす異民族も、唐の政策に反論しませんでした。
節度使とは?
唐の第9代皇帝・玄宗(李隆基)が、異民族の侵入に備えて配備した募兵集団の指揮官を指します。
いつからいつまであった?
節度使の誕生は710年。
玄宗が涼州(甘粛省西部)に河西節度使を配備しました。
当時、吐蕃と突厥が手を組んで、唐を攻める可能性がありました。
そのため、7万3000人もの兵を河西節度使に託しました。
また、西突厥の侵入に備えて、亀慈(新疆ウイグル自治区アクス地区)に安西節度使を配備しました。
☑ 太原(山西省太原市)に河東節度使
その後、
☑ 712年には、庭州に北庭節度使
☑ 713年には、幽州に范陽節度使、鄯州に隴右節度使
☑ 714年には、成都に剣南節度使
☑ 719年には、営州に平盧節度使
☑ 721年には、霊州に朔方節度使
を配備しました。
中でも、
☑ 范陽節度使に9万1400人もの兵
☑ 隴右節度使に7万5000人もの兵
を託し、吐蕃や突厥の他、奚や契丹の侵入にも備えました。
辺境の地に、節度使を配備したことで、唐は異民族の侵入を防ぐことができました。
でも、755年11月、3つの節度使を兼任していた安禄山が挙兵してしまいます。
安禄山のもとには18万3900人もの兵が集結していました。
3つの節度使を除くと、唐が動かすことのできる節度使の兵力は30万3000人となります。
でも、節度使を配備した目的は、異民族の侵入を防ぐためであり、国内の反乱を鎮圧するためではありません。
安禄山軍に対抗することができなかった唐は、安禄山に洛陽、長安を占拠されてしまいました。
唐が滅亡すると、節度使は各々建国し、五代十国時代が訪れます。
710年に誕生した節度使は、250年の歴史をもって廃止されました。
役割
節度使は地方政治を監督する按察使や収支の調整を行う度支使を兼任し、軍事だけでなく、民事や財政をも統括するようになりました。
やがて、節度使の独立性が高まり、節度使を中心に地方勢力が形成され、唐はますます弱体化してしまいました。
唐が滅亡した後も、節度使は配備され続け、元王朝(1271年から1368年)に完全に廃止されました。
都護府と節度使の違いは?
都護府と節度使の違いをつかめないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
節度使は、唐(後半)が異民族の侵入に備えて配備した軍官です。
※節度使は藩鎮と呼ばれる軍事機関に属していました。
☑ 設置した目的、配備した目的
☑ 組織(都護府)、個人(節度使)
☑ 設置、配備された時期(唐の前半と唐の後半)
という違いがあります。
まとめ
都護府と節度使の役割と違いを紹介しました。
都護府と節度使は、世界史の教科書に必ず登場する重要用語です。
違いを押さえると共に、都護府と節度使が誕生した背景を知ると、当時の中国が異民族をどれだけ恐れていたかが分かりますね。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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