2014年に世界遺産登録された大運河。
大運河はどのように建設されたのでしょうか。
また、大運河は後世にどのような影響を与えたのでしょうか。
大運河建設の経過と後世に与えた影響を紹介します。
大運河建設の経過
まずは、大運河がどのように建設されたのか、経過をみていきましょう。
交易を発展させるために建設開始
隋の初代皇帝・文帝(楊堅)が中国を統一する前、北朝と南朝はお互いに警戒し、皇帝は自国の民が行き来するのを好みまず、使節が往来する程度で、交易は行われませんでした。
ところが、文帝が中国を統一すると、格差を無くすために、交易を盛んにする必要が出てきました。
中国の地形は、西に進むほど高く、東に進むほど低いため、川は西から東に流れます。
そのため、中国の川は同じ方面に進むばかりで、川を交易に利用することができませんでした。
そこで、文帝は南北を繋ぐ運河の建設に乗り出しました。
といっても、統一したばかりの隋は、戦乱によって民が疲弊していたため、建設を急がずにゆっくり進めることにしました。
610年に大運河が完成する
文帝が崩御すると、民が相変わらず疲弊しているにも関わらず、隋の第2代皇帝・煬帝(楊広)は建設を急ぎました。
即位した604年、煬帝は都・長安から、東にある洛陽までの水路を改修しました。
605年には、世界史の教科書で取り上げられる大運河の建設に乗り出し、たった半年の間に、黄河と淮水を繋ぐ通済渠を建設しました。
その後、黄河と天津を繋ぐ永済渠、長江と杭州を繋ぐ江南河を建設。
文帝が黄河と長安を繋ぐ広通渠、淮水と揚子江を繋ぐ溝を建設していたため、河北から、また、長安から揚子江付近にある江都(揚州)まで、船で行き来できるようになりました。
その結果、南方の発展した経済を都・長安のある北方に吸収することに成功。
大運河の建設前と比べて、全国の耕地面積を3倍に増加することができました。
400万人の中には、女性も含まれていました。中国の歴史上、女性を労役に駆り出したのは煬帝だけです。
後世に与えた影響
文帝、煬帝によって建設された大運河は、後世にどのような影響を与えたのでしょうか。
民の反感を買う
大運河の建設によって、利益を得たのは、交易に従事する者だけ。
民のほとんどは、利益を得るどころか、生活が困窮することになってしまいました。
何故、大運河を建設したことで、民の生活が困窮することになったのでしょうか。
具体的な理由をみていきましょう。
皇帝のために、道路を整備したから
船で行き来できるといっても、運河には水流があるところ、ないところがあります。
水流があるところでは、川の流れに任せて船を進めますが、水流がないところ、また、水流に逆らわなければいけないところでは、船に綱を結んで、民が船を曳く必要がありました。
そのため、運河の岸には、民が船を曳くことのできる道路を整備しなければいけませんでした。
それも、ただの道路ではありません。
皇帝が運河を利用するのに、景観を含めて、船の乗り心地が悪いなんて失礼。
そこで、道路には柳を植えて、景観を良くし、また、夏に備えて、日陰をつくりました。
大運河の建設に動員されたうえに、道路の整備に動員された民。
動員されたからといって、税が免除されたり、報酬をもらえたりするわけではありません。
道路を整備しながら、税を納めなければいけない民の生活は困窮しました。
豪華船を造ったから
黄河から揚子江までの運河は約60m。
この60mの間に、いくつかの船を浮かべることになりますが、皇帝が乗る船(龍船)は、長さが600m、高さが14mにも及びます。
船が岸に衝突しないように、運河を建設しなければいけなかったと考えると、建設責任者・宇文愷は知恵を一生懸命絞ったでしょうね。
龍船には、上甲板に皇帝の座敷が、中甲板に官吏や后妃の過ごす部屋が120室ありました。
最下層には宦官の部屋と調理室、貯蔵庫がありました。
皇后が乗る船は、龍船に比べて小さいだけで、造りに違いはありませんでした。
もちろん、船を造るのは民です。
道路の整備に加えて、造船に携わっても、民は税を納めなければいけませんでした。
お金持ちに移住、出店を強制したから
長安から江都までの間には、離宮が40箇所もありました。
中でも、長安から洛陽に向かう途中にある顕仁宮は一番荘厳でした。
煬帝は洛陽の発展に力を入れ、地方のお金持ちを洛陽に強制的に移住させ、お店を開かせました。
出店したお金持ちは儲かろうが、儲かるまいが、生活に支障はありません。
でも、以前から洛陽で商売していた民は、お金持ちに客を奪われてしまいました。
豪華船に乗る者のために食事を用意したから
大運河の長さはなんと1500kmもあります。
これは青森県から山口県までの距離に相当します。
船に持ち込む食糧は往路分だけで、復路分の食糧は通る先々で調達します。
腐っちゃいますからね。
そのため、地方官は船に乗っている人全員分の食糧を用意しなければいけませんでした。
船に乗ったのは、皇族や后妃、尼僧、道士、異国の商人。
皇帝である煬帝としては、皇族や后妃はもちろん、異国の商人には見栄を張りたいもの。
食事が質素だったり、量が少なかったりすると処刑されます。
地方官は民から食糧を徴収しました。
徴収した食糧で作った料理は、とても豪華。
でも、后妃や尼僧、道士は食が細く、料理を食べきることができませんでした。
残飯が出ましたが、民が食べられるわけではありません。
食事にありつけない民の目の前で、穴を掘り、残飯を捨てていました。
外国との交易が盛んになった
大運河を利用して、外国商人が洛陽を訪れるようになりました。
見栄っ張りな煬帝は、外国商人のために、サーカスや手品師、楽団員を手配しました。
外国商人がたっぷり楽しんだ後、お酒をご馳走し、隋の威勢を見せつけようとしました。
外国商人の中には、「ここから少し離れたところでは、粗末な衣服を着て、物乞いをする民を見かけました」、「ここに施された装飾は役に立ちません。衣服にして、与えてあげてはどうでしょうか」と言う者もいました。
煬帝より、外国商人のほうが、隋を冷静に見ることができていたんですね。
唐の食糧供給が安定した
400万人もの民を動員して、大運河を建設した煬帝。
民の反感を買い、最期は臣下・宇文化及に殺されて、隋は滅びますが、隋が滅びても、大運河が消滅するわけではありません。
大運河の恩恵を最も受けたのは、隋が滅んだ後に建設された唐です。
唐は都・長安と東都・洛陽の食糧供給を安定させるために、大運河を利用しました。
大運河は南北の格差をなくすという政治的な目的から建設されましたが、
人手、お金を投入することなく、タダで大運河を利用できたことも、唐が300年近く存続できた理由の一つと言っても過言ではありません。
まとめ
大運河建設の経過と後世に与えた影響を紹介しました。
大運河の建設は文帝の治世に始まり、煬帝の治世に急ピッチで進められました。
民の生活が困窮しているにも関わらず、大運河が開通するなり、煬帝は龍船に乗り、遊覧船や護衛船をたくさん率いて、洛陽から江都までデモンストレーションを行いました。
民の反感を買い、隋各地で反乱が勃発し、隋は衰退の一途をたどりましたが、隋の滅亡後に建国された唐は大運河を活用して繁栄しました。
1400年以上の時を越えて、現在まで残っている大運河。
死ぬまでに一度は渡ってみたいですね。
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