鳥居派の中興の祖と評される鳥居清長。
鳥居清長の生涯と錦絵から退いた理由、作風と代表作を紹介します。
鳥居清長ってどんな人?
鳥居清長は宝暦2年(1752年)生まれ。
江戸本材木町(現在の日本橋)の書肆(しょし)・白子屋関口市兵衛のもとに誕生しました。
15歳で紅摺絵でデビューする
鳥居清長の師は初代・鳥居清満(1735年~1785年)。
明和4年(1767年)、鳥居清長はわずか15歳で細判紅摺絵(べにずりえ)でデビュー。
安永年間(1772年~1781年)には、110点もの細判役者絵を描きます。
また、安永4年(1775年)から黄表紙挿絵を描き始めます。
天明2年(1782年)までの7年間で120点以上の黄表紙に携わりました。
八頭身美人を描いて自らの作風を確立する
黄表紙挿絵を描きつつ、鳥居清長は中判の美人画をも描きました。
当初鈴木春信やその跡を継いだ磯田湖流斎の影響を受け、細身で繊細な女性を描いていました。
ところが、二人の作風から徐々に離れていきます。
鳥居清長は大判に八頭身美人を描き、自らの作風を確立し始めました。
鳥居清長によって、当時の理想の女性像が完成しました。
錦絵から退いた理由
天明5年(1785年)、師・鳥居清満が亡くなります。
鳥居清満の孫・庄之助が二代目を継ぐまでの間、中継ぎとして、鳥居清長が鳥居家四代目を襲名。
寛政期(1789年~1801年)には錦絵から手を引きます。
そして、鳥居派の家業である芝居小屋の絵看板や番付制作に専念します。
文化12年(1815年)、鳥居清長は64歳で亡くなりました。
鳥居清長の作風
浮世絵はどれも同じに見えるという方。
鳥居清長の絵には、2つの大きな特徴があります。
描く女性は健康的
紹介したように、鳥居清長は八頭身美人を描きました。

八頭身美人ときくと、スラリとした細身の女性を思い浮かべるかもしれません。
確かに、鳥居清長が台頭するまで描かれてきたのは細身で繊細な女性でした。
鳥居清長の描く八頭身美人は健康的な印象を与えました。
また、明るく晴れやかな表情を描き、女性がもつ強い意志を表現しました。
一枚でも楽しめる続絵
鳥居清長は大判を用いて、男女や風景をのびやかに描きました。
でも、鳥居清長の作風はそれだけではありません。
大判を用いて、繋げると一枚の絵に見える「続絵」を描いたんです。

例えば、「隅田川渡し船」。
一枚でも楽しめる、でも、三枚繋げるともっと楽しめる「三枚続」の絵です。
☑ 中央の絵には、渡し船に乗る二人の女性
☑ 左の絵には、渡し船に乗る二人の女性や猿回しの男性
が描かれています。
八頭身の美人女性が立っている姿、座っている姿、しゃがんでいる姿が一枚一枚に描かれ、一枚でも楽しめます。
でも、三枚繋げれば、渡し船が隅田川の東岸に到着したことが分かる。
鳥居清長の人気作品の一つです。
鳥居清長の代表作
多くの作品を残した鳥居清長。
中でも、特に親しまれている作品を2つ紹介します。
戯童十二気候
一年の毎月の行事と共に、子どもの遊びを描いたシリーズ。
正月に刊行される「金太郎 凧上げ」は新年の縁起物として毎年大人気でした。
吾妻橋下の涼み船
紹介した「隅田川渡し船」に同じく、「三枚絵」の作品です。
☑ 中央の絵には、渡し船で座る、立つ男女
☑ 左の絵には、渡し船の隅で立つ女性、座る女性
が描かれています。
・吾妻橋の橋柱
・三囲神社
が背景に描かれていることから、隅田川の東岸で船遊びを楽しんでいることが分かります。
まとめ:鳥居清長は大人も子どもも楽しめる絵を描いた!
鳥居清長の生涯と錦絵から退いた理由、作風と代表作を紹介しました。
人気絶頂の中、30代後半で錦絵から手を引いた鳥居清長。
それでもなお、鳥居清長の絵が人々から支持され続けるのは、庶民の暮らしに焦点を当てた作品は多かったからかもしれませんね。
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