戦国時代を記録した家忠日記の著者・松平家忠が伏見城で迎えた最期

徳川家康の家臣には、
① 17年間日記を書き続ける
② 参戦する
③ 築城・修繕をする
というオールマイティな松平家忠がいました。

戦国時代を記録した家忠日記著者松平家忠伏見城で迎えた最期を紹介します。

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戦国時代を記録した家忠日記

「家忠日記」とは、深溝松平家第4代目当主・松平家忠が記した日記です。

松平家忠が日記を綴ったのは、天正3年(1575年)から文禄3年(1594年)10月まで。
なんと17年間も日記を書き続けました。

松平家忠が日記を綴り始めた天正3年(1575年)といえば、織田・徳川連合軍が武田勝頼を破った長篠の戦いが勃発した年です。
また、松平家忠が日記を綴り終えた文禄3年(1594年)といえば、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が終わった翌年です。

家忠日記に書かれている内容は、
① その日の天気や行事
② 政治情勢
③ 外交
など多岐にわたります。

家忠日記には、松平家忠の感想はほとんど記載されていません。
事実が淡々と綴られた家忠日記は、当時を客観的に知ることのできる史料として注目されています。

その日の天気や行事

感想は記載されていませんが、松平家忠は自身が能や茶の湯、連歌などを楽しんだことを綴っています。

松平家忠が何を楽しんだかなんて、興味がない…

と思う方もいらっしゃるかもしれません。

でも、松平家忠は戦国武将・戦国大名であり、徳川家康の一家臣でもあります。

松平家忠の楽しみは、
・武将や大名がどのような日常生活を送っていたのか
・武将や大名がどのような習慣をもっていたのか
などを知る史料となります。

家忠日記で特に注目されているのは、織田信長の家臣・弥助に関する記述です。

弥助は日本人の名前ですが、出身はポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)。
織田信長と親交の深かったイエズス会が来日した際、弥助は護衛人として連れてこられました。

弥助は黒人で、初めて黒人を見た織田信長は「弥助」と名付けて、武士の身分を与えました。

天正10年(1582年)に甲州征伐を終えた織田信長は、弥助と一緒に徳川領を通過しました。

この時、松平家忠は弥助を見て、「(弥助の)身長は1.82メートルもある」と綴っています。

その他、家忠日記には、将棋の現存最古の局面図が記されています。
将棋の対局者は判っていませんが、棋力の弱い人物だろうといわれています。

政治情勢

徳川家康の一家臣として、松平家忠は織田政権下、豊臣政権下における政治情勢を綴っています。

徳川家康は、
・武田氏を共に滅亡させた織田信長
・織田信長の死後、織田政権を継承した豊臣秀吉
に従っていました。

でも、徳川家康は甲斐国、信濃国、駿河国、遠江国、三河国の5ヶ国を統治していた強大な戦国大名。
織田家臣、豊臣家臣の中でも異彩を放つ存在だったに違いありません。

織田政権下、豊臣政権下において、徳川家康がどのように振る舞ってきたのかを知る史料となります。

外交

徳川家康の領地は、
・甲斐国の武田氏
・相模国の北条氏
の領地と接していました。

徳川家康は時には同盟を結び、時には敵対し、領地を拡大してきました。

徳川家康と周辺の戦国大名の関わり方、動向を知る史料となります。

著者・松平家忠が伏見城で迎えた最期

家忠日記の著者・松平家忠は弘治元年(1555年)生まれ。
深溝松平家第4代目当主・松平伊忠と今川家臣・鵜殿長持の娘との間に誕生しました。

松平伊忠は夏目広次の一時期の主君でした。

21歳で家督を継ぐ

深溝松平家の居城・深溝城は徳川家臣・酒井忠次の指揮下にありました。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは、酒井忠次の命令に従って、鳶ヶ巣山を奇襲。

奇襲は成功しましたが、父・松平伊忠は戦死してしまいます。
松平家忠は21歳で跡を継ぐこととなりました。

築城、修繕に携わる

その後も徳川家康の主要な戦いに参戦します。

でも、松平家忠の仕事は築城や城の補修がメイン。
浜松城や諏訪原城、横須賀城や高天神城を攻めるための城を築城、補修するなど、土木面でも大きく活躍しました。

松平家忠は土木の技術をどのように習得したのでしょうか。

松平家忠の深溝城の西には、広田川という一級河川がありました。
広田川が度々氾濫していたため、松平家忠は堤防の復旧工事に年がら年中追われました。

堤防の復旧工事を繰り返すうちに、松平家忠は土木の技術を自然と習得していました。

忍城を預かる

天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封されると、松平家忠は武蔵国埼玉郡に1万石を与えられ、忍城に移ります。

忍城主は徳川家康の四男・松平忠吉でしたが、当時松平忠吉は10歳。
幼い松平忠吉に代わって、松平家忠が忍城を守ることとなりました。

天正10年(1592年)、松平忠吉が正式に忍城主となります。

伏見城の戦いで討死する

文禄3年(1594年)、松平家忠は下総国の小見川藩初代藩主となりました。

慶長5年(1600年)、石田三成と対立していた徳川家康は、会津の上杉景勝討伐に向かうと言って、石田三成を焚きつけます。
石田三成が挙兵し、伏見城に攻め入ると読んでいた徳川家康は、松平家忠や鳥居元忠に伏見城の守備を任せました。

徳川家康の目論見どおり、石田三成は4万人の兵を率いて伏見城に攻め入ります。

伏見城に配備された兵はわずか1800人。
関ヶ原の戦いの前哨戦と呼ばれる伏見城の戦いで、松平家忠は46歳で討死しました。

まとめ:徳川家康を知られるのは家忠日記のおかげ

戦国時代を記録した家忠日記著者松平家忠伏見城で迎えた最期を紹介しました。

松平家忠は天正3年(1575年)から文禄3年(1594年)まで日記を書き続けました。

何故、文禄4年(1595年)以降日記を書かなかったのかは判りません。
伏見城の戦い前夜の出来事などを、家忠日記で読んでみたかったですね。

大河ドラマ「どうする家康」をもっと楽しむなら、こちらのガイドブックがオススメです。

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