武田氏が滅亡した天目山の戦いの経過とその後をわかりやすく

織田・徳川連合軍が武田軍を破り、武田氏を滅亡に追い込んだ歴史的戦い・天目山の戦い。

① 戦いはどのように繰り広げられた
② 戦後処理はどのように行われた
のでしょうか。

武田氏滅亡した天目山の戦い経過その後わかりやすく紹介します。

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天目山の戦いとは?

天目山の戦いとは、天正10年(1582年)3月11日に、武田勝頼率いる武田軍と織田家臣・滝川一益率いる織田軍の間に勃発した戦いを指します。

三方ヶ原の戦いが勃発した元亀3年(1572年)12月22日から、武田軍は織田・徳川連合軍と戦い続けてきました。

三方ヶ原の戦いでは、武田信玄が軍を率いていましたが、武田信玄は元亀4年(1573年)4月に亡くなります。

以降、跡を継いだ武田勝頼が軍を率いて、
・明知城の戦い
・飯羽間城の戦い
・第一次高天神城の戦い
で、織田・徳川連合軍を破りました。

その後、長篠の戦い、第二次高天神城の戦いで、武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗れます。

天目山の戦いは、武田軍と織田・徳川連合軍の最後の戦いです。

天目山の戦いの経過

・天正3年(1575年)に勃発した長篠の戦いで、織田信長と徳川家康に
・天正9年(1581年)に勃発した第二次高天神城の戦いで、徳川家康に
敗北した武田勝頼。

特に、第二次高天神城の戦いでは、高天神城で籠城戦を繰り広げる家臣に対して援軍を送ることができず、武田勝頼は信頼をすっかり失っていました。

織田信長との和睦に失敗する武田勝頼

家臣の信頼を失っても、武田勝頼は武田家を存続させなければいけません。

そこで、武田勝頼は長年にわたって戦ってきた織田信長と和睦を試みます。
武田家で人質としていた織田信長の五男・織田信房に仲介役を頼み、織田家に帰したんです。

元亀4年(1573年)から武田家で人質生活を送った織田信房は武田家で元服しました。
信房の「信」は、織田家の通字ではなく、武田家の通字だと考えられています。

ところが、織田信房が帰る前に、織田信長は朝廷に働きかけて、武田勝頼を朝敵(賊軍)として討伐する準備を既に整えていました。

民、家臣の信頼を失う武田勝頼

また、この頃、武田勝頼は拠点を躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)から新府城(山梨県韮崎市)に移しました。

新府城の築城にあたり、民に年貢、賦役を課したり、戦力を補うべく、民を出兵させたりしたため、武田勝頼は民の信頼をも失いつつありました。

武田信玄の娘・真竜院(真理姫)を正室に迎えていた木曾義昌は、武田勝頼に対する不信感から武田家を離反。
弟・上松義豊を人質として織田家に差し出し、木曾義昌は織田信長に寝返りました。

義兄に裏切られた武田勝頼は木曾義昌の母、側室、子どもを処刑しましたが、家臣の家族を処刑された織田信長はこれを理由に出陣します。

おゆう
おゆう

武田勝頼は織田信長に大義名分を与えてしまったんです。

織田・徳川連合軍、北条軍が進軍

・織田信長・信忠親子は伊那から
・織田家臣・金森長近は飛騨から
・同盟を結んでいる徳川家康は駿河から
進軍。

織田・徳川連合軍が武田勝頼の討伐に乗り出したことを知った相模国の北条氏政も伊豆から進軍します。

織田信忠が高遠城を攻略したり、武田家臣・穴山信君が徳川家康を介して織田信長に寝返ったりし、武田勝頼率いる兵は1000人にまで激減しました。

武田勝頼は天目山に逃亡し自害

家臣の妻子が残っているにも関わらず、武田勝頼は新府城に火をつけて、武田二十四将・小山田信茂を頼って、鶴瀬(山梨県甲州市大和町)に向かいました。

ところが、小山田信茂は武田勝頼を受け入れると見せかけて発砲。

行き場を失った武田勝頼は天目山に向かって逃亡しました。

天目山は武田氏10代当主・武田信満が自害した場所です。

織田家臣・滝川一益は4000人の兵を率いて、武田勝頼を追いかけ攻撃します。

武田勝頼と一緒にいた武田家臣・土屋昌恒、小宮山友晴、阿部勝宝が奮戦。
でも、滝川軍を破ることはできず、武田勝頼は長男・武田信勝、継室・桂林院達と共に自害しました。

武田勝頼の従兄弟・大竜寺麟岳は武田信勝と刺し違えて亡くなりました。

その後

天目山の戦いで武田勝頼が亡くなり、武田氏は滅亡しました。

① 領主が不在となった武田領
② 主君を失くした武田遺臣
は、どうなったのでしょうか。

武田領の分割

武田勝頼が亡くなってから10日後、織田信長は功績をあげた家臣に武田領を分け与えました。

その他、特に注目したいのが、滝川一益と穴山信君に与えられた褒美です。

滝川一益に与えられた褒美

中でも、織田軍の中でも、武田勝頼を討つという大手柄をあげた滝川一益。
滝川一益が望んだのは、領地ではなく、珠光小茄子(じゅこうこなすび)という織田信長所有の茶器でした。

ところが、織田信長が滝川一益に与えたのは、尾張から離れた上野一国、信濃の小県郡、佐久郡。

織田信長が滝川一益に尾張から離れた地を与えたのは、茶器を褒美に望んだ滝川一益に失望したからではないかと考えられています。
織田信長は武将・滝川一益に大きく期待していたのかもしれません。

穴山信君(梅雪)に与えられた褒美

武田信玄の次女・見性院を正妻に迎えていながら、武田家を離反した穴山信君。

実は、武田家を離反するにあたって、穴山信君は武田氏の名跡を残すことを条件に提示していました。

穴山信君の長男・穴山勝千代は武田信玄の甥にあたります。

織田信長は穴山信君との約束を守り、穴山勝千代は武田氏当主を継ぐことが認められました。

武田遺臣の追討

織田信長は武田遺臣の逃げ込んだ恵林寺を焼き討ちしました。

また、武田氏に従っていた甲斐国衆を処罰し、敵対勢力の芽を摘みました。

織田信長が処罰のターゲットとしたのは、有力国衆のみ。
それ以外の国衆は処罰せず、家臣に引き入れられました。

紹介したように、武田家を離反した穴山信君は長男が武田氏当主を継ぐことが認められました。

助けを求めた武田勝頼に発砲した小山田信茂は、どのような褒美を与えられたのでしょうか。

織田信長に仕えようと、小山田信茂は長男を人質として差し出しました。

でも、織田信長は小山田信茂の申し出を受け入れませんでした。

戦いの勝敗がつく前に、穴山信君は武田家を離反し、織田信長に寝返りました。
一方、武田勝頼に発砲した時、小山田信茂は織田信長にまだ寝返っていませんでした。

織田信長は「小山田信茂は主君・武田勝頼に発砲した裏切り者だ」とみなしたんです。

小山田信茂は主君を裏切った罪を問われて処刑されました。

まとめ:天目山の戦いの勝者・織田信長は天下統一に王手!

武田氏滅亡した天目山の戦い経過その後わかりやすく紹介しました。

民、家臣の信頼を失った武田勝頼は、織田・徳川連合軍の攻撃を受け、天目山に逃亡した後に自害しました。
戦いの後、織田信長は家臣に武田領を分け与える一方で、武田遺臣を追討し、天下統一に王手をかけました。

武田勝頼がもっと早くに織田信長と和睦を試みていたら、生き延びることができたのかもしれませんね。

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