楠木正成は河内国、または、駿河国の出身だといわれています。
河内国は現在の大阪府南部、駿河国は現在の静岡県中部で、その距離は350キロメートル。
また、楠木正成の銅像が皇居にあります。
① 楠木正成の出身地が河内国、または、駿河国だといわれる理由
② 楠木正成の銅像が皇居にある理由
を紹介します。
楠木正成の出身地は河内国?駿河国?
楠木正成の出身地が河内国、または、駿河国だとされるのには、それぞれ次のような理由があります。
出身地が河内国だといわれる理由
① 館跡が発掘されている
② 金剛山一帯を拠点に、地の利を生かした戦をした
③ 同じ河内国にある大江時親邸(大阪府河内長野市)で軍学と兵法を学んだ
④ 同じ河内国にある観心寺(大阪府河内長野市)で学問を修めた
⑤ 父・楠木正遠が同じ河内国の玉櫛荘(大阪府八尾市)を拠点としていた
⑥ 河内国石川郡(大阪府南河内郡)に「楠木」の地名がある
⑦ 武蔵国の御家人・楠木四郎(楠木正成の祖先)が北条氏に仕えていて、北条氏の支配下にあった河内国の統治を任された
ことから、楠木正成は河内国赤坂(大阪府千早赤阪村)の出身だといわれています。
出身地が駿河国だといわれる理由
① 正応6年(1293年)、鎌倉幕府が駿河国の荘園・入江荘楠木村を鶴岡八幡宮に寄進し、北条氏に仕えていた楠木氏が居住した
② 元弘3年(1333年)、幕府軍が楠木正成を攻撃するために河内国へ進軍すると、「楠木氏は鎌倉出身なのに、何故、河内国に進軍するのか」と幕府軍を嘲笑する落首の記録が残っている
ことから、楠木正成は駿河国楠木村(静岡市清水区)の出身だといわれています。
そのため、出身地を特定するうえで、「楠木」という地名が存在することは必要不可欠です。
楠木正成の銅像はなぜ皇居に?
皇居の周辺には、
・奈良時代末期から平安時代初期の貴族である和気清麻呂
・第45代、第48代から第51代まで内閣総理大臣を務めた吉田茂
など、多くの銅像があります。
皇居外苑に建てられている楠木正成像もその中の一つです。
紹介したように、楠木正成の出身地は河内国、もしくは、駿河国といわれています。
何故、楠木正成像が皇居にあるのでしょうか。
楠木正成の銅像の概要
楠木正成像の高さは、
① 銅像:4メートル
② 台座:4メートル
の合計8メートルで、重さは6.7トンにも及びます。
② 靖国神社にある大村益次郎像
③ 皇居外苑にある楠木正成像
は「東京の三大銅像」と呼ばれています。
楠木正成の銅像が皇居にある理由
後醍醐天皇と共に戦い、鎌倉幕府打倒に大きく貢献した楠木正成。
その後、足利尊氏に敗北すると分かっていながら、楠木正成は後醍醐天皇の命令に従って湊川に出陣。
敗北が確実になると、楠木正成は自害します。
敗北すると分かっていたなら、
・出陣するふりをして逃げる
・足利尊氏に寝返る
などできたはず。
でも、楠木正成はブレることなく、後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くしました。
ところが、室町幕府を開いた足利尊氏ばかりが英雄視され、楠木正成は長期にわたって評価されませんでした。
楠木正成が評価されるようになったのは、17世紀後半のこと。
常陸水戸藩第2代藩主・徳川光圀が楠木正成を「理想の忠臣」として評価します。
皮肉にも、江戸時代末期には、徳川光圀が評価した楠木正成は討幕を目指す勤王志士の理想像にもなりました。
明治時代に入ると、天皇が中心となって政治を行ったため、後醍醐天皇に忠義を尽くした楠木正成や新田義貞は改めて評価されます。
楠木正成がこの世を去ってから555年後の明治23年(1891年)。
住友友忠が東京美術学校(現在の東京芸術大学)に楠木正成像の製作を依頼。
愛媛県新居浜市にあった別子銅山の銅を使って、日本を代表する彫刻家・高村光雲、山田鬼斎、岡崎雪聲が製作しました。
楠木正成像が完成したのは、住友友忠が制作を依頼してから10年後のこと。
楠木正成像の製作がいかに壮大なプロジェクトだったかが分かりますね。
まとめ:楠木正成は天皇を見守り続ける!
① 楠木正成の出身地が河内国、または、駿河国だといわれる理由
② 楠木正成の銅像が皇居にある理由
を紹介しました。
楠木正成は河内国、または、駿河国の出身だといわれていますが、後醍醐天皇に忠義を尽くしたことが評価され、死後565年の時を経て、皇居外苑に銅像がつくられました。
昔はもちろん、今も楠木正成は天皇を見守っているんですね。
楠木正成は大河ドラマ「太平記」に登場しています。
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