楠木正成の長男・正行は初陣を皮切りに北朝方に勝利を重ねました。
① 楠木正行と隅田氏の隅田城の戦い
② 楠木正行と細川顕氏の藤井寺・教興寺の戦い
③ 楠木正行と細川顕氏・山名時氏の住吉・天王寺の戦い
を紹介します。
楠木正行と隅田氏の隅田城の戦い
隅田城の戦いとは、貞和3年(1347年)8月10日に、
① 楠木正行
② 北朝方・隅田氏
との間で行われた戦いを指します。
楠木正行軍の兵700人に対して、隅田氏の兵は2000人。
隅田氏は兵力差を活かして、楠木正行軍を一気に攻撃します。
城がもぬけの殻であることに気付いた楠木正行は、間道から城に入って攻略します。
隅田氏は城を取り返そうと、城に慌てて戻りましたが、時既に遅し。
楠木正行に城内から攻撃され、隅田氏は京に敗走しました。
楠木正行と細川顕氏の藤井寺・教興寺の戦い
隅田氏の戦いで勝利した楠木正行は、四天王寺や住吉の民家を焼き払うといった小規模な戦闘に乗り出します。
楠木正行を警戒した足利尊氏は、讃岐国・河内国・和泉国の守護である細川顕氏を派遣しました。
楠木正行と細川顕氏の戦の経過には3つの説があります。
藤井寺の戦いで決着がつかず、教興寺の戦いが同日に開始
貞和3年(1347年)9月17日、楠木正行と細川顕氏の間で藤井寺の戦いが勃発。
決着がつかず、戦は一時的に中断します。
その日の夜、楠木正行軍が細川顕氏軍を夜襲して、教興寺の戦いが開始。
細川顕氏軍は敗北し、京に帰りました。
休憩する細川顕氏軍を夜襲して、藤井寺・教興寺の戦いが開始
細川顕氏は、
① 天王寺・堺方面
② 八尾方面
の2つの軍を編成し、楠木氏の本拠地である東条(大阪府富田林市)に進軍しました。
楠木正行軍と細川顕氏軍は藤井寺や誉田八幡(大阪府羽曳野市誉田)で衝突。
優勢に立った細川顕氏軍は「間もなく勝利するだろう」と気を抜いて、休憩をしてしまいます。
貞和3年(1347年)9月17日の夜、楠木正行軍が細川顕氏軍を夜襲して、
① 藤井寺の戦い(楠木正行本軍 VS 細川顕氏本軍)
② 教興寺の戦い(楠木正行第二軍 VS 細川顕氏第二軍)
が開始。
細川顕氏本軍・第二軍共に敗北し、京に帰りました。
藤井寺の戦いの2日後に、教興寺の戦いが開始
貞和3年(1347年)9月17日、楠木正行軍が藤井寺の戦いで細川顕氏軍を撃破。
ところが、河内国守護である細川顕氏は同国から撤退できず、敗北後も同国に滞在し続けていました。
その2日後の19日の昼に、教興寺の戦いが始まり、今度は細川顕氏軍が優勢に立ちます。
ところが、その日の夜、楠木正行軍が細川顕氏軍を夜襲して、細川顕氏を再び撃破しました。
藤井寺・教興寺の戦いは史料が少なく、経過の詳細は判っていません。
ただ、楠木正行軍が細川顕氏軍を夜襲して撃破したことは間違いなさそうです。
楠木正行と細川顕氏・山名時氏の住吉・天王寺の戦い
細川顕氏が敗北したと知った足利尊氏は、山名時氏を追加で派遣します。
山名時氏は丹波国・丹後国・伯耆国・隠岐国の守護を務める足利一門。
細川顕氏と山名時氏は楠木氏の本拠地である東条に進軍します。
貞和3年(1347年)11月26日、住吉(大阪市住吉区住吉)及び天王寺(大阪市天王寺区・阿倍野区)で、両軍は衝突。
ただ、楠木正行を警戒するあまり、
① 細川顕氏軍は戦わないまま逃げる
② 山名時氏軍は戦ったものの、あっという間に撤退する
などし、楠木正行は再び勝利しました。
北朝方の河内国守護・細川顕氏を破った南朝方の河内国守護・楠木正行。
3つの戦で勝利を重ね、細川顕氏を河内国から追い出した楠木正行は、同国の整備にようやく着手することができました。
まとめ:北朝方が楠木正行に敗北したのは慢心と恐れ!
① 楠木正行と隅田氏の隅田城の戦い
② 楠木正行と細川顕氏の藤井寺・教興寺の戦い
③ 楠木正行と細川顕氏・山名時氏の住吉・天王寺の戦い
を紹介しました。
楠木正行の連勝は、あの楠木正成を思い出させたに違いありません。
楠木正行を恐れた北朝方は、この後高師直・師泰兄弟を派遣します。
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