天正壬午の乱とは?結果と勝者、与えた影響とその後を簡単に解説

本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれてすぐに、
① 上杉氏
② 北条氏
③ 徳川氏
の間で繰り広げられた天正壬午の乱。

天正壬午の乱結果勝者、与えた影響その後簡単解説します。

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天正壬午の乱とは?

天正壬午の乱とは、天正10年(1582年)6月から10月にかけて、
① 上杉景勝
② 北条氏政・氏直親子
③ 徳川家康
の間に勃発した戦いを指します。

同年2月から3月にかけて行われた甲州征伐において、織田信長と徳川家康が武田勝頼を破ります。
これにより、武田氏は滅亡しました。

武田氏が支配していた甲斐国・信濃国は織田家臣に分け与えられました。

ところが、その3ヶ月後に本能寺の変が起き、織田信長は明智光秀に討たれます。

織田家臣による甲斐国・信濃国の統治に納得できない武田遺臣が一揆を次々と蜂起。
甲斐国・信濃国は混乱に陥りました。

甲斐国・信濃国を手に入れるなら、今がチャンスだ…

そう考えた上杉景勝、北条氏政・氏直親子、徳川家康は甲斐国・信濃国を侵攻します。

① 上杉景勝は越後国から北信濃を侵攻
② 北条氏政・氏直親子は相模国から西上野を侵攻・制圧した後に信濃国・甲斐国を侵攻
③ 徳川家康は三河国から甲斐国を侵攻
し、天正壬午の乱が勃発しました。

結果と勝者

天正壬午の乱は約5ヶ月間にわたって行われましたが、結果はどうだったのでしょうか。
また、上杉景勝、北条氏政・氏直親子、徳川家康のうち、誰が勝者となったのでしょうか。

結果

相模国から西上野を侵攻し制圧に成功した北条軍。

北条軍は信濃国に侵入し、既に北信濃を侵攻していた上杉軍と戦うこととなりました。
同時に、北条軍は甲斐国都留郡、東部を侵攻し、既に甲斐国を侵攻していた徳川軍と戦うこととなります。

北条軍は上杉軍、徳川軍との戦いに兵を割かなければいけませんでした。

でも、上杉景勝、北条氏政・氏直親子、徳川家康のうち、最も不利だったのは上杉景勝でした。

天正壬午の乱が勃発する前から、
① 越中国の佐々成政
② 元家臣・新発田重家
と戦っていて、北条軍との戦いに十分な兵を割くことができなかったからです。

また、本能寺の変の後に伊賀越えをして、岡崎城に帰還した徳川家康は出遅れていました。

上杉景勝、徳川家康に対して、北条氏政・氏直親子は兵力を集中することができました。

・上杉景勝が天正壬午の乱に2万人の兵を
・徳川家康が天正壬午の乱に1万人の兵を
動員したのに対し、
・北条氏政・氏直親子は5万3000人もの兵を動員。

北条氏政・氏直親子は圧倒的に有利だったんです。

ところが、天正壬午の乱の最中、上杉景勝は徳川家康と和睦し、越後国に帰ってしまいます。

上杉景勝と徳川家康が手を結び、北条氏政・氏直親子と徳川家康が和睦した結果、
・上杉景勝は北信濃4郡
・徳川家康は上杉領である北信濃4郡を除く信濃国、甲斐国全域
・北条氏政・氏直親子は上野国
を獲得することとなりました。

勝者

越後国に帰ったにも関わらず、上杉景勝は北信濃4郡を獲得しました。
また、兵が最も少なかったにも関わらず、徳川家康は信濃国の一部と甲斐国全域を獲得しました。

一方、兵が最も多かったにも関わらず、北条氏政・氏直親子は上野一国の獲得に終わりました。

兵力の差と獲得した領地を相対的に見て、天正壬午の乱の勝者は徳川家康といえるのではないでしょうか。

与えた影響とその後

北条氏政・氏直親子と徳川家康の和睦内容は、
① それぞれが獲得した領地に大きな影響を与える
② 新たな問題を引き起こす
こととなります。

与えた影響

上杉景勝、北条氏政・氏直親子、徳川家康の間に勃発した天正壬午の乱。

徳川家康が上杉景勝、北条氏政・氏直親子と和睦し、天正壬午の乱は終結しました。

でも、国衆は和睦内容を知りませんでした。

そのため、
① 上杉景勝が新たな主となることに納得できなかった信濃国衆
② 北条氏政・氏直親子が新たな主となることに納得できなかった上野国衆
から、上杉景勝、北条氏政・氏直親子は反感を買うこととなりました。

その後

天正壬午の乱の終結後、
① 上杉景勝と信濃国衆の間
② 北条氏政・氏直親子と上野国衆の間
で、激しい戦いが繰り広げられます。

また、上野国沼田城を拠点としていた真田昌幸は北条氏政・氏直親子が上野国を統治することに納得できません。
そこで、真田昌幸は北条氏政・氏直親子の和睦相手である徳川家康に反旗を翻しました。

① 北条氏政・氏直親子
② 徳川家康
③ 真田昌幸
は沼田領問題を解決することができず、天下統一を進める豊臣秀吉の預かるところとなります。

天正17年(1589年)7月、豊臣秀吉は沼田領に関して、

沼田城を含む沼田領の3分の2を北条氏の領地、残り3分の1を真田氏の領地とする!

という裁定を下しました。

沼田城を失うこととなった真田昌幸は激怒しながらも、豊臣秀吉の裁定を受け入れました。

ところが、上野国全域を獲得したかった北条氏政・氏直親子は豊臣秀吉の裁定に不満を抱きます。

4ヶ月後の11月、沼田城主・猪俣邦憲が真田氏の領地を侵攻し、豊臣秀吉と北条氏政・氏直親子の間に大きな溝が生まれます。

そして、豊臣秀吉が北条氏を滅亡させる小田原征伐に発展していきました。

まとめ:天正壬午の乱は徳川家康の圧勝!

天正壬午の乱結果勝者、与えた影響その後簡単解説しました。

上杉氏、北条氏、徳川氏の三つ巴の戦いとなった天正壬午の乱。

信濃国の一部、甲斐国全域を獲得した徳川家康が最も得する結果となりました。
でも、国衆に相談なく領土を分割したことで、新たな問題を引き起こしてしまいました。

いつの時代も根回しが大事ですね。

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