織田信長と徳川家康を仲介した水野信元!最期と死因、水野勝成との関係

・徳川家康の父・松平広忠と母・於大の方を離婚させるきっかけ
・徳川家康と織田信長が清洲同盟を結ぶきっかけ
を作った水野信元。

水野信元は徳川氏の権力拡大に貢献しましたが、その最期は悲しいものでした。

徳川家康織田信長仲介した水野信元最期死因、水野勝成との関係を紹介します。

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徳川家康と織田信長を仲介した水野信元!

水野信元は緒川城主・刈谷城主を務めていた水野忠政松平信貞の娘の間に次男として誕生しました。

今川氏を離れて織田氏に従う

天文12年(1543年)、父・水野忠政と兄・水野近守が相次いで亡くなり、水野信元が家督を継ぎます。

父・水野忠政と義父・松平信貞は今川氏に従っていましたが、水野信元は織田氏に従うことを選択しました。

おゆう
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というのも、(安城)松平家当主となった松平広忠は10歳になったばかり。
松平家と共に今川氏に従うことに対して不安を感じたためです。

水野家当主である水野信元が織田氏に従うと決めたら、一族も織田氏に従わなければいけません。
徳川家康の父・松平広忠に嫁いでいた水野信元の妹・於大の方は離縁することになりました。

その後、水野信元は水野家出身の妻を亡くした阿久比城主・久松長家に於大の方を嫁がせました。

知多の覇権を手にする

緒川城主となった水野信元は知多半島の勢力を拡大に乗り出します。

・宮津城
・成岩城
・長尾城
などの知多半島にある城を次々と陥落。

水野氏に同じく知多半島に勢力をもっていた戸田氏は衰退しました。

戸田氏が衰退する決定打となったのが、田原城主・戸田康光の徳川家康誘拐事件。

天文16年(1547年)、戸田康光が今川義元に討たれると、戸田氏は水野信元と和睦して生き残りを図ります。

これにより、水野信元は知多半島の覇権を手にしました。

徳川家康と織田信長を仲介する

天文23年(1554年)、知多半島を攻略しようと、今川義元は城を次々と陥落。
緒川城と刈谷城も今川軍に包囲されてしまいます。

水野信元は主君・織田信長に援軍を依頼。
織田信長のおかげで、ピンチを切り抜けることのできた水野信元は、織田信長により強い忠誠心を抱きました。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に討たれます。
水野信元は今川家で人質になっていた甥・徳川家康の逃亡を手助けしました。

その後、永禄5年(1562年)、徳川家康と織田信長を仲介し、二人が清洲同盟を結ぶきっかけを作りました。

弟・水野忠重と従兄弟・水野清久が徳川家康に従う中、水野信元は引き続き織田信長に従いました。

織田信長のもとで活躍し続ける

・元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、佐和山城を攻略
・元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、徳川家康に代わって退却を指揮
するなど、水野信元は織田信長、徳川家康の二人のもとで大活躍します。

室町幕府第15代将軍・足利義昭から、武田勝頼と協力して織田信長を討つよう文書が届きます。
でも、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、織田信長に従って出陣しました。

水野信元の最期と死因

織田信長に仕えながらも、徳川家康をサポートしてきた水野信元。
徳川家康と織田信長にとって、両家で権力を拡大した水野信元は警戒するべき存在でした。

天正4年(1576年)、織田家臣・佐久間信盛が、
① 武田家臣・秋山信友と内通している者がいる
② 武田軍に兵糧を送った者がいる
と織田信長に密告します。

天正3年(1575年)、織田信長は武田信玄に奪われた岩村城の奪還に乗り出します。
この時、織田信長は岩村城を兵糧攻めで落とすよう、佐久間信盛や水野信元などの家臣に進言しました。

佐久間信盛は、

岩村城外で城内の金品と食糧を交換するという裏切り者がいます。
その裏切り者こそ、水野信元です。

と言ったんです。

織田信長は水野信元とその息子・水野信政を切腹させるよう、徳川家康に言い渡しました。

水野信政は水野信元の甥(弟・水野信近の息子)です。
水野信近は桶狭間の戦いの後に討死したため、水野信元が水野信政を養子に迎えて育てていました。

徳川家康は久松長家を通じて水野信元に接触。
水野信元を大樹寺に呼び、徳川家臣・平岩親吉、石川数正に命じて、二人を斬りました。

その後、水野家の領地は佐久間信盛が引き継ぎますが、佐久間信盛が嘘をついていたことが判明。
織田信長は水野信元の弟・水野忠重を刈谷城主に任命して、水野家を再興させました。

水野勝成との関係

備後国福山藩初代藩主・水野勝成は水野信元の弟・水野忠重の長男。

つまり、水野信元と水野勝成は伯父と甥の関係になります。

兄・水野信元に仕えていた水野忠重は、水野信元が織田信長に仕えると、織田信長の陪臣となりました。

ところが、水野忠重と水野信元は兄弟仲が悪かったため、水野忠重は徳川家康に仕えることを選択します。

・水野忠重が水野信元から離れたこと
・水野忠重と水野信元の兄弟仲が悪かったこと
から、水野信元と永禄7年(1564年)生まれの水野勝成の間に接点はなかったかもしれません。

まとめ:立ち回り上手な水野信元は要注意人物だった!

徳川家康織田信長仲介した水野信元最期死因、水野勝成との関係を紹介しました。

水野信元の裏切りによって、両親が離婚することとなった徳川家康。
でも、水野信元が織田信長に仕えていなければ、徳川家康が織田信長と清洲同盟を結ぶことはなかったかもしれません。

徳川家康は水野信元を憎み、疎んでいたと思います。
でも、水野信元にとって、徳川家康は大事な甥だったのではないでしょうか。

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